
平遥は山西省の省都太原から南西へ90km、汾河が南北に流れ、のどかな田園風景が広がる城砦都市。明、清時代の街並みがそのまま残り、町全体が博物館のようだ。町を囲む周囲6キロ、高さ12m余りの城壁は、現在最も完全な形で残ることで有名。1997年世界文化遺産に登録された。近くにある喬家の豪邸(祁県民俗博物館)は、張芸謀監督の映画「赤い提灯―大紅灯籠高高挂」のロケ地として知られる。ご覧になった方は、ストーリー自体に劣らず重要な役割を演じた重厚な建物群を覚えておられるであろう。敷地面積8724㎡、高さ十数mのレンガの壁で囲まれた要塞のような建築群は、19の建物(院)と、313の部屋を持つ住宅兼商店である。山西省にはこれ以外に、王家、曹家、渠家など同じような豪商の邸宅が数多く存在する。これらはかつて明時代、初めて銀行制度を発達させ、明、新の全国金融網を牛耳った山西省商人たちの夢の跡である。彼らは、北はモスクワ、レニングラードから、東南アジアやインドのカルカッタ、日本の下関、神戸、大阪、東京にまで支店を持ち、中国全土の物流と金融を支配した。山西省のような貧しい田舎で、一体何故そんなことができたのか。それは、彼らの栄光と没落を知り、知られざる明、清時代の壮大な中国裏面史を辿ることとなる。
人口に比して耕地の少ない山西省の住民は、古くから働き口を求めて全国に散っていた。「鶏と犬の鳴き声のする所、すべて山西商人あり」との諺があった。彼らにとって商業は、当時の社会通念と異なり尊ぶべき業態で、何にも換えがたい一生の事業であった。しかし現金が主要な決済手段であった時代、その輸送は常に不安と危険を伴った。そこで北京で西玉成顔料問屋を営む雷履泰は、故郷の平遥工場と四川、天津支店間の決済に、初めて信用状を使った。同種の悩みを持つ多くの同郷の者に同様の両替サ-ビスを提供することで手数料を取り、両替商として独立、1823年に「票号」を設立した。平遥に本店を置く金融機関「日昇昌」の成立である。彼は山西省商人が多数活躍する天津、張家口、瀋陽、重慶、長沙、蘇州、上海、アモイ、広州、などに支店を置き、両替業務を拡大する。
彼の成功は他の山西省商人に同様の機会を与え、多くの商人が「票号」に参入することとなる。不足する資本は、同郷人との合資や株式により調達した。彼らは両替業務から出発し、預金や貸付け、高利貸しに業務を拡大する。彼らの山西商人全国ネトットワークに基礎に置いた金融サービスは、中国全土の物流を助け、商品経済を促進することとなった。山西票号の主なものは、平遥、祁県、太谷の3地区に27社あり、それぞれ地域帮(集団)を形成して競合した。日昇昌、蔚豊厚、蔚泰厚、日新中、合盛元、永泰裕、三晋源、大徳恒、志成信、大盛川などで、光緒前期(1880年前後)には、全国80都市に400余りの支店を擁していた。
彼の成功は他の山西省商人に同様の機会を与え、多くの商人が「票号」に参入することとなる。不足する資本は、同郷人との合資や株式により調達した。彼らは両替業務から出発し、預金や貸付け、高利貸しに業務を拡大する。彼らの山西商人全国ネトットワークに基礎に置いた金融サービスは、中国全土の物流を助け、商品経済を促進することとなった。山西票号の主なものは、平遥、祁県、太谷の3地区に27社あり、それぞれ地域帮(集団)を形成して競合した。日昇昌、蔚豊厚、蔚泰厚、日新中、合盛元、永泰裕、三晋源、大徳恒、志成信、大盛川などで、光緒前期(1880年前後)には、全国80都市に400余りの支店を擁していた。
清朝政府は非効率な官業による製塩業を民営化することとし、513箇所に分割し各地で山西商人に経営を委託した。山西商人は座高(資本家)として塩工を雇い、手工業の規模を超えた大型の産業資本に踏み込んだ。
また有能な専門的な人材を育成し、資本と経営を分離した近代経営の基礎を築いた。学校や訓練施設を作り、15,6歳の男子に、ゴビ砂漠を越えるためのラクダの乗り方を訓練し、モンゴル語、ハザク語、ウイグル語、ロシア語など当時の世界規模の通商に必要な語学教育を施した。彼らの成功は、苦難を厭わぬ刻苦勉励、創意と工夫によるものであった。彼らは各地に山西会館を設立し、郷土資本の振興と交流の場を設けた。
太平天国の一揆以来、疲弊する財政に悩んだ清朝政府は、白蓮教など頻発する一揆、クーデターに対応するため山西省票号に注目。製塩業などの利権や官職を与えることで、彼らを財政政策の執行と軍備調達の道具として利用した。純粋に民間資本であった山西票号は、次第に封建政府と不可分の関係を持つ皇商となり、封建政府を支える結果となった。事につけ数々の名目で清朝政府が票号から吸い上げる寄付金は、巨額に上った。正に票号は、彼等の財政を支える「打ち手の小槌」となった。
残念ながら山西商人の金融業による蓄財は、西欧世界のように商業資本を産業資本に転化することが少なく、主に伝統的な資産蓄積方法、即ち広大な土地の購入と超豪華な邸宅建設、贅を極めた生活に費やされた。その意味で、彼らは地主制度に基づく伝統的経済から抜け出せなかった。黄土高原の端に位置する山西省の乾燥した気候を利用して、資材や銀をそのまま地下倉庫に格納する者もいた。
山西商人の最も大きな経済基盤は、北方ロシアとモンゴ-ル、南方のアジア貿易にあった。それらは長年にわたる彼らの汗と努力の結晶であった。山西商人は茶の販売を目的にモンゴルの砂漠を越え、チタ、トムスク、クラスノヤルスク、モスクワまで商圏を伸ばした。しかし清朝政府は、シベリア鉄道を敷設し南進するロシア政府の圧力に屈服し、ウラジオストック、天津、上海、武漢と南下するロシア商人へ大幅な税制上の優遇措置や海上貿易権を与えた。一方自国の山西商人の営業活動には制限を加え、巨額の課税と搾取の対象とした。次々に清朝政府が結ぶ対外的な不平等条約は、山西商人を一層不利な立場に追いやった。1862年の中露陸地通商条約は、山西商人の長年の努力で築いたモンゴル、新疆貿易を無償でロシアに開放するものであった。山東省の鉄鉱石は、外国産に取って代られ、外国製煙草が自由化される一方、国産煙草は販売禁止となった。帝国主義列強と結んだ天津条約、北京条約、下関条約などの不平等条約は、中国と山西票号を衰弱の一途に導いた。国は荒れ、戦争と社会不安、軍閥や匪賊の横行は山西商人の活動を困難なものとした。1914年始まった第一次世界大戦で、山西票号は巨額の損失を被った。1917年度ロシア1月革命や、1924年モンゴル共和国の成立により、同地にあった山西票号の資産は根こそぎ没収されることとなった。
1921年時点で存続していた票号は僅かに5社、平遥の日昇昌票号は1923年に倒産、山西省祁県の「大盛川」票号は1929年に、「三晋源」票号は1934年、「大徳恒」票号は1932年にそれぞれ幕を閉じた。山西票号は、正に清朝政府に取り込まれ一体化したことで、共に滅ぶ運命を辿ったのだ。
1370年に完成した城壁はその形から亀城と呼ばれ、中国四大古城の一つに数えられる。4万人が暮らす城内には4本の大道、8本の中道、72の横丁が碁盤の目のように整然と並び、明、清時代の城下町の典型を示す。街の中心南大街には3層の鼓楼(市楼)が建ち、昔のままの骨董屋、本屋、八百屋、酒屋、薬屋、などが明・清時代そのまま並んでいる。旧日昇昌本店は現在中国票号博物館となり、当時使われていた金庫や、小切手など票号の歴史を示す興味ある事物を展示している。日昇昌のほかに、蔚盛長、日新中、百川通(現在家具博物館)などの旧票号跡も見られる。
歴史の表舞台を降りた平遥はいま、古城の面影を残して静かに横たわる。訪れる中国人でさえ、山西省票号の過去の栄光を知る者はほとんどいない。城内はバッテリ式自動車か三輪の人力車のみ通行が許されているため、静かなたたずまいを残す。付近には2,000体の彩塑像を誇る東方彩塑像芸術の宝庫、双林寺や、963年創建の鎮国寺など、共に世界文化遺産に登録された史跡がある。
いま静かに眠る平遥で山西商人に思いを馳せれば、もう彼らは二度と歴史に甦ることはないのかと思わずにいられない。純粋に民間資本から出発し、ひたすら血と汗で近代的な金融制度に道を拓きながら、腐敗した時の政権に翻弄され、時代の過酷な戦いに散った彼らの悲惨な運命に心打たれる。もう一度、彼らに新たな活躍の場を期待することは、叶わぬ夢であろうか。