
清朝は1616年、初代太祖が満州を統一し金国を建てた後、第三代順治帝が山海関を越え中国本土へ入り、1644年、明に代わり清朝帝国を建国した。その後第四代康煕帝、第五代雍正帝、第六代乾隆帝の三代で最盛期を迎えた。第八代道光帝の時、アヘン戦争に敗れて以降、国勢は衰退し、特に第九代咸豊帝の妻・西太后が独裁政権を握ると国政は大いに乱れ、終に1911年辛亥革命により第十二代宣統帝溥儀が退位したことで終焉を迎えた。
清王朝には2箇所の陵墓がある。一つは北京西部125k、河北省遵化市近郊にある東陵で、他の一つは北京西南100k、河北省易県にある西陵である。東稜には第三代皇帝・順治帝から始まり、第四代康煕帝、第六代乾隆帝、第九代咸豊帝、第十代同治帝の5人と西太后を始め15名の皇后、141名の皇妃が眠っている。一方西陵には、第五代雍正帝、第七代嘉慶帝、第八代道光帝、第十一代光緒帝の四人の陵墓と三つの皇后陵、三つの皇妃陵その他がある。いずれも2000年にユネスコ世界遺産に登録された。
東陵は総建築面積113万平方メートル、中国の皇族陵墓群の中で最大面積を誇る。1661年から1908年まで、「風水」により選ばれた昌瑞山南麓に247年間もの間造営された。その特徴は、極めてよくシステム化された設計にある。「入関」後の最初の皇帝、順治帝の孝陵を中心に、中国伝統の長幼の序に従い父を左に子を右として、左右扇形に配置されている。皇后の陵墓や陪塚は、それぞれの皇帝陵墓の脇に建てられ、その全ては各皇帝陵の神道(墓前に通じる道)に連なる。更に各皇帝陵の神道も中心線上の孝陵の神道へと繋がる。こうして全体がツリー状の体系を形づくっている。具体的には、順治帝の孝陵の左側(西側)には、乾隆帝の裕陵、更にその左側に咸豊帝の定陵、孝陵の右側(東側)に康煕帝の景陵、更にその右に同治帝の恵陵が並んでいる。
東陵を訪れて最初に現れるのは精緻な彫刻を施した巨大な鳥居形の「大牌坊」(高さ12.5m、幅31.4mmで中国最大)、次に総門と言うべき「大紅門」、更に順治帝の「文治武功」を記した「大牌楼」、神道の両側に並ぶ18対の石像群、黄色と緑のタイルに飾られた龍鳳門、石英石の3つの橋を抜けて初めて孝陵の神域に入る。この間5500メートルの神道が結んでいる。神域では隆恩門を抜け隆恩殿に入り、いよいよ地下に棺が置かれた宝城に至る。なお宝城の上段、宝頂からは孝陵全体が見渡せる。 順治帝は在位18年、天然痘で24歳の若さで死亡したと言われるが、性病との噂もある。伯父のドルゴン将軍を輔政王として国政を委ね、帝はその傀儡となった。
乾隆帝の裕陵は、建物の壮美さと精緻さで清朝陵墓の中で随一と言える。その建設には白銀203万両が使われた。神室である地下宮殿へは、奥行き54メートルの地下隧道を通り四つの石門を抜ける。仏教に帰依した乾隆帝は両壁、天井、門楼に仏像、供養人、神獣、法器、経文など仏教をテーマとした彫刻をびっしりと施した。その豪華さは乾隆帝の時代の権力と財力の豊かさを余す所なく示し、石刻芸術の宝庫と言われる。
乾隆帝は25歳で即位し、在位60年(1735~1795)、更にその子・康熙帝の太上皇として更に3年間政権の座にあり、1799年89歳の長寿を全うした。その間、新疆、チベット、雲南、ビルマ、台湾などに遠征し、十回の遠征全てに成功したことで、「十全老人」と号した。文化面では当時最大の百科全書「四庫全書」を編纂し、数々の逸話を残している。
東陵には皇帝陵の他に注目すべき二つの皇后陵がある。一つは清朝建立に多大の寄与をしたと言われる孝庄文皇后の昭西陵で、他の一つは清朝没落のきっかけとなった西太后の定東陵である。
孝庄文皇后は第二代太祖・皇太極(ホンタイジ)の皇后で、容貌、才覚とも優れ、若い頃から皇帝を助け清朝「入関」の基礎を築いた。皇太極が突然死亡し親王達の皇位争いが起こると、これを沈め、6歳の息子・順治帝を皇位に就けて執政を補佐した。1661年順治帝が24歳で亡くなると8歳の康煕帝を皇位に就け、皇帝執政を補佐した。順治、康煕2代に渡る「垂簾聴政」は、清朝の隆盛期を築く原動力となった。その意味で孝庄文皇后は傑出した女性政治家であったと言える。 1688年孝庄文皇后が75歳で亡くなると、本来は太祖・皇太極の北陵(遼寧省瀋陽)に合葬されるべきであるが、彼女は息子・順治帝の側に葬られることを希望した。その結果東陵の「大紅門」外の「石牌坊」脇にひっそりと葬られた。
西太后(幼名玉蘭)は、満州八旗の下級官吏の家に生まれ、1851年咸豊帝の「秀女」として18歳で後宮に入った。その後の同治帝を生み「妃」となった。1861年咸豊帝が死去すると、6歳の同治帝を皇位に就け、同じく咸豊帝の東太后を抱きこんで共に垂簾政治を展開するが、後に邪魔な東太后を毒殺したと言われる。
1874年同治帝が19歳で死亡すると妹の子を4歳で即位させ、光緒帝として第二次垂簾政治を開始する。光緒帝が成婚後に親政政治を始め、康有為らと政治改革(戊戌の政変)に着手すると、帝を幽閉したまま死去に至らしめ、改革派を弾圧した。1908年光緒帝が亡くなると、直ちに3歳の溥儀(宣統帝)を次期皇帝に指名し、翌日74歳で死亡した。2人の幼帝を操って48年間も政治の実権を握り、保守政治を続けた西太后は、清朝王朝の没落の大きな要因となった。
定東陵では、咸豊帝の東太后(慈安)と同治帝の母、西太后(慈禧)の二人の陵墓が並んでいる。相互に競い合い憎しみあった二人の太后を隔てるものは、今は一本の溝だけである。
西太后の慈禧陵では、陵恩殿と両側の配殿にある64本の柱に金色の龍が巻きつき、梁などの木製部分一面に描かれた彩色画には、ふんだんに金箔が施され、きらびやかで美しい。143.5kの黄金が使用されたと言われる。
西太后は定東陵が完成後16年経って改修が必要であるとの理由で、更に13年を掛けて絢爛豪華な現在の陵墓に仕上げた。陵恩殿前の龍鳳図の彫刻も東太后のものと同じでは気に入らず、作り直した。中国伝統のパターンに反して、鳳凰を龍の上に配した「鳳引龍」は、西太后の強い権力欲を示すと言われている。清朝が列強の圧迫を受け最も困難な次期に、西太后のような権力欲と残忍な性格の権力者を頂いたことは、清王朝の最大の不幸であった。
もう一つの注目すべき陵墓は、香妃の墓である。乾隆帝の裕陵の東側には「裕陵妃園寝」があり、そこに容妃(伝説の香妃、1734年~1788年)も眠っている。
彼女は乾隆帝の41名の后妃の中で唯一ウイグル族の女性であり、享年54歳で亡くなった。彼女はカシュガルの東南200kのヤルカンドで生まれ、カシュガル王の妃となった。乾隆帝が莎車(現在の新疆ウイグル地区)を平定した際、26歳で都へ召し出された。言い伝えによれば、乾隆帝は彼女の美貌と身体から発する芳香に魅せられ、幾度も求愛をしたが、カシュガル王に操を立てる香妃は、胸に短刀を当て、帝の度重なる求愛も、どんな贈り物も拒絶し、「故郷への帰国か、さもなければ自らの死」を許すよう願ったと言う。乾隆帝の母の皇太后は息子の執政への影響を恐れ、帝の反対を押し切って密かに自殺を許した。乾隆帝がそれを知って駆けつけた時には、彼女は既にこと切れ、部屋には芳しい匂いが満ちていたという。彼女の亡骸は3年を掛けて故郷に運ばれ、今カシュガルのアバ・ホージャ(エテイガール清心寺)にホージャ一族72名と共に眠っていることになっている。しかし当時亡骸を腐らずにカシュガルまで運べる筈もなく、東陵の「裕陵妃園寝」が彼女の本当の陵墓であろう。また乾隆帝が香妃を慰めるため、カシュガルからはるばる砂なつめの木を運ばせ庭に植えた話や、共に都に来た付き人の奏する故郷の音楽も、望郷の年に駆られた香妃の心を慰められなかったというのも、彼女の哀れな一生を思う巷の伝説なのであろうか。
今に残る香妃の写真は、若く美しい気品のある姿を示している。東陵の中で、香妃の墓は特に見学する程の特色は無いが、エテイガール寺院に詣でた者や、彼女の伝説を聞いている者には、興味深いものがある。
皇帝陵墓の例に漏れず、東陵も度々盗掘や略奪の被害を受けた。中でも1925年軍閥・孫殿英の略奪と、日本軍撤退の混乱期に乗じた1945年匪賊・馬福田による被害は大きく、内部の貴重な文化財はほとんど失われた。しかし乾隆帝の裕陵や西太后の定東陵などは、訪れる者に在りし日の絢爛豪華な王朝の姿を十分に思い起こさせてくれる。満州から出た一民族国家・清朝は、中国に入り漢民族その他を統合して一大多民族国家を築いた。しかし近づく変革の嵐にも気付かず太平の世を貪り、近代国家としての発展に乗り遅れ没落した。今東陵に展開する巨大な陵墓群は、永い中国歴史の中で、清王朝が見た一時のはかない夢の跡なのであろうか。それは今、しゃにむに近代化路線を驀進する現代中国に繋がる直ぐ前の姿であったのだ。