北京・潭柘寺

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前漢時代(紀元前206年)、仏教が中国に伝来して以来、既に2,200年が経った。仏教は長い歴史を通じて、西から東へ、北部から南部へと、国の隅々まで伝播した。仏教の発展度合いは時代により大きく変化するが、多くは時の支配者の考え次第であった。

山門裏側北京の西方40km、太行山に建つ潭柘寺は、西晋連興4年(西暦316年)に建立された。北京とその近郊に建てられた最初の仏教寺院であった。その荘厳な伽藍は、北京の皇帝の館にも匹敵するものであった。

潭柘寺は既に、1700年の歴史を有している。即ち北京の都自体より古いのだ。その事は、“先に潭柘寺あり、後に北京あり”と言う 同地区のことわざに、如実に示されている。

創建当時は小さかったが、唐代初期、生涯仏教に寄与し、出家した則天武后の庇護を受けて発展した。

東西通路元代、クビライカーンは、ラマ教に帰依したが、仏教を排斥したり布教を制限したりはしなかった。彼の娘・妙厳公主は、父親が長い間戦争に明け暮れ、数千万人に塗炭の苦しみを与えたことを悔いて、潭柘寺で出家した。彼女は父親の罪を償うため苦しい修行を続け、毎日観音堂に籠り長時間の祈りを捧げることで、父親の減罪を祈ったのだ。そのため、彼女の座った跡には、深い窪みができた。彼女の遺骨は潭柘寺の境内の碑塔の中に葬られ、今も現存している。

潭柘寺は、中国の仏教の歴史上、極めて重要な役割を果たした。各時代に、潭柘寺からは多くの高僧が出た。各朝廷の皇帝は、度々この寺に詣でたのだ。

眺望明代には、潭柘寺の住職・道衍が、燕王・朱棣が挙兵して、甥の手から帝位を奪うのを手助けした。朱棣は永楽帝となり、道衍を褒め称え、皇太子の教育係りに任じようとした。しかし道衍は謝して断り、ただ潭柘寺に戻り修行をさせてくれるよう懇願した。永楽帝は道衍を慰問するため2度潭柘寺を訪れた。彼は潭柘寺に多大の寄進をし、寺は北京で最大の伽藍となった。潭柘寺の伽藍は、大型の典型的な明代の建築様式を示している。1402年~1420年に14年を掛けて建築された故宮の建物群は、壮大で優美な潭柘寺の伽藍を見本として建てられたのだ。そこで潭柘寺は、皇帝の寺と言っても過言ではない。

銀杏の大木潭柘寺は、太行山の斜面に建てられており、太行山の明媚な風景の中に溶け込んで、見事な伽藍を示している。門前には数百年を経た銀杏の古木が立つ。丘に登るに従い、幾つもの建物群が次々と高みへと伸びている。
伽藍の配置は、主に真ん中(中路)と左右(東路、西路)に三区分されており、左右対称に配置されている。これは、明代の典型的な伽藍配置である。中央部には、牌楼、山門、天王殿、大雄宝殿、毘盧閣が、東部には方丈院と清代皇帝の行宮が、西部には戒壇や観音殿などがある。

眺望寺の背後には太行山の9峰が寺の周りを取り囲むように立ち、門前には永定河が清らかな流れを保っている。寺の左右には時代を経た城砦がくねくねと続いて、寺を取り囲む。“寺院の前を永定河が照らし、背後を太行山が支え、左右の龍が寺を抱擁する”と形容された。潭柘寺は北京のみならず、中国国内でも第一の寺であったのだ。

眺望歴代の皇帝は、常に潭柘寺を重視したため、寺は清朝には隆盛を極めた。入関した(満洲から中国領に入った)清朝初代皇帝・順治帝は6歳で即位したが、幼少から禅宗に帰依した。成人した後も、頻繁に僧侶と親交を深めた。寵愛する后の董鄂氏が亡くなると生きる望みさえ失い、潭柘寺で髪を下ろし僧侶になることを望んだ。彼は度々潭柘寺に長期間逗留し、“朕は前世では僧侶であった。なぜ皇帝に生まれ来たのか“と語るのを常とした。彼は潭柘寺で書を読み、幽玄な廟の中を散策することを喜んだ。彼はいつも寺を離れ難く思っていた。

康熙帝扁額順治帝の息子・康熙帝も、潭柘寺に3度行幸した。康熙帝は寺を岫雲禅寺と改名し、山門に、真珠の玉を追いかける龍の彫刻のある長い板に“欶建岫雲禅寺”(帝の詔勅により岫雲禅寺を建立する)の6文字を記した。書体は優麗で力に溢れ、康熙帝がいかに書道の造詣が深かったかを示している。潭柘寺のあちこちには、康熙、雍正、乾隆、嘉慶などの皇帝の詩句や扁額が残されており、文化遺産としても、また文献的な価値からも極めて重要な位置を占めている。皇帝たちの書体は書道として鑑賞しても、筆が流暢に走り、逆巻く激流となり、優美な音楽を奏でている。こうした書の遺産のゆえに、潭柘寺は特別な寺となり、国内外から多くの訪問客を引き付けている。

龍大瓦寺の中心は大雄宝殿で、幅33m、奥行き21m、高さ2.3mの基壇の上に乗っている。木造建築で、屋根には黄色の瑠璃瓦が乗り、軒は緑色の瑠璃瓦で葺かれている。軒先には風鈴が着けられており、風になびいて心地よい音を響かせる。
注目すべきは、屋根の棟の両端に着けられた龍の大瓦で、高さ2.9m、黄色の瑠璃瓦がきらきらと輝いて人目を引く。その形は荒々しく猛々しい。
特異なのは、猛龍の首には純金の4本の鎖がしっかりと結び付けられていることだ。

大雄宝殿

 康熙38年のある夏、康熙帝が潭柘寺に逗留していた時、夜間雷鳴がなり、大雨となった。康熙帝が起きて窓を開けて外を見ると、鬼瓦の二匹の龍が今にも嵐の中を天に向かって飛び立とうとする様子であった。康熙帝は直ぐに命じて、鬼瓦の龍を金の鎖で屋根にしっかりと結びつけた。金の鎖で縛った鬼瓦は潭柘寺だけのもので、皇帝の寺としての威厳と権力を現している。る。

鳳凰大瓦負けず嫌いの慈禧太后(西太后)は、康熙帝の後塵を配することを嫌った。彼女は観音菩薩を信仰していたので、枢軸線中央の最上段に毘盧殿を建て、観世音菩薩を祭った。二層の楼閣式建築の屋根の棟には、黄色の瑠璃色の円筒瓦の上にそそり立つ磚で出来た鳳凰の彫刻を載せた。その意匠は“鳳凰が上で龍が下”を示していた。古代中国では、龍は皇帝を、鳳凰は皇后の象徴であった。これは、男の権力絶対であった封建社会にあって、この建物は剛然と、女権が男権を凌駕すると声高々と宣言する史上唯一の例となった。これは清朝東陵の慈禧陵の前庭の階段彫刻を思い出させる。それも鳳凰が龍の上にいる図案であったことを思えば、毘盧殿の例も不思議ではない。毘盧殿が建立された光緒年間は、正に西太后の権力が絶大な時代であった。慈禧(西太后)と光緒帝の力関係は、建築中の潭柘寺の鳳凰が龍の上に来ている図案に、如実に表われている。

内庭潭柘寺がこのように完全に保存されているのは、実に驚ろくべきことである。住職は、創建以来ずっと潭柘寺が歴代皇帝の庇護の下にあったためだと語る。日本軍が中国に侵入し、北京を攻略した時でも、潭柘寺は被害を免れた。それは、清朝末期から民国初期にかけて、潭柘寺の住職が日本の昭和天皇の娘婿である大谷光瑞と友好関係にあったためである。当時潭柘寺の多くの僧侶が日本に留学していた。日本の皇室との深い関係が、北京で唯一潭柘寺を日本軍の侵略破壊から護ったのだ。

山門裏側潭柘寺一番の高みに登ると、眼前には青い空と白い雲が広がり、その下に赤壁と黄色の甍が連なる景色が見渡せる。寺の前後には青々とした柘植の森林が繁茂し、古木に覆われた潭柘寺は、緑の竹の林の中に埋もれている。香を炊く煙が高く上がり、寺は今日も、見渡す限りの賑わいに満ちている。

(中国東方航空機内誌からの抄訳、原文は狄華著)

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