
上海は今、ふたたび世界の注目を浴びるホットな都市となった。世界中から企業や工場が進出し、超近代的ビル群が林立し、世界的な企業がオフィスを構える。それに合わせておしゃれなショッピングセンターやレストランが次々に誕生し、グルメを楽しめる時代となった。
しかし上海の歴史は、黄浦江沿いに展開する外灘と租界を抜きにしては語れない。そこに林立する新古典主義の建築群は、1世紀を経て訪れる者を魅了し、近代都市としてアジアの最先端を走った上海の華麗な過去を雄弁に物語る。では外灘とそれを生み出した租界は、どの様にして出来たのだろうか。その発展の跡を辿ることは、この稀に見るユニークな都市・上海の旅を、なお一層興味あるものとするに違いない。
第一次阿片戦争(1842年)終了の結果、清朝政府は英国と南京条約を締結し、上海、寧波、福州、アモイ、広州の5港を開港することに同意した。そこで翌年(1843年)船長バルフォア(Captain
Balfour)が上最初の上海領事として上海へやって来た。上海は当時人口27万人。町と呼べるものは黄浦江沿いの城塞都市・上海県城(現在の豫園周辺)しかなく、蘇州や松江の郊外に位置する田舎の小都市と思われていた。清朝政府の地方行政長官である上海道台・宮慕久は、バルフォアを迎えに港へも行かず、当初住居を借りたいとの彼の要求も拒否した。
後から来た英国商人は、県城への入城を拒否されたため、上海城の北門城外に掘っ立て小屋を建てて住まなくてはならなかった。こうした状況に耐えられない英国商人は、住宅建設用の土地を購入するよう要望した。しかし南京条約は、新たな貿易協定を結ぶための初歩的な原則を規定するだけで、土地の賃借、外国商の商品倉庫や家族のための住宅建設について、何ら規定がなかった。バルフォアは“外国人の居住を妨げない”とする条項を頼りに、上海道台の宮慕久に圧力をかけ、外国人専用の居住地域を設定するよう迫った。バルフォアは租借地として黄浦江沿いのぬかるみの土地を選んだ。即ち現在の上海の Bund、外灘である。このように租界は香港と違い、厳密な意味で国と国との条約に基づく租借地ではない。地方行政官に武力で同意させた植民地であった。
元来の外灘は樹木1本なく、土地の半分は水に浸かっていた。無数の排水溝や小川が縦横無尽に流れているうえ、一面に墓地が点在し、正に竹と粘土で作った背の低い粗末な小屋が建っているだけだった。
何故バルフォアはこんな荒地を租界地に選んだのか。一つには、東には黄浦江が、北には蘇州河が流れ、水上・陸上両方の交通の便がよかったこと、一方揚子江河口から黄浦江に入ってくる外国商船や軍艦は、上海県城に近いその辺りに停泊したからだ。彼らは万一の際は軍艦の力を借りることができるように、軍艦が見える所に居を構える方が安全だと考えた。
1845年11月29日、宮慕久とバルフォアは2年間の交渉の結果「上海土地章程」(憲章)を締結した。海外の投資家はそれを上海基本法と考えた。その規定によれば英国商人の居住地は、北は季家場(現、北京東路)、南は洋涇浜(現、延安東路)、東は黄浦江、西は河南路の830畝(アール)の地域に拡大され、そこは“十里洋場”と呼ばれた。
イギリスの成功を見た米国は、1848年蘇州河北岸の虹口地区を租界として要求。1863年にイギリス租界と合併して共同租界となった。後に日本も共同租界に参画する。
フランスは、1849年イギリス租界と県城の間の土地をフランス租界とし確保した。共同租界への参加を促されるがこれを拒否し、1865年独自の租界を造ることとなった。
フランスは1861年の第一次、1900年の第二次の拡張を経て、現在の徐家匯の華山路に至るまで西に広がる広大なフランス租界を構築した。フランスは独自の行政管理機構・上海フランス公董局を設け、公園や静かな庭園住宅を持った、フランス人らしいQuality of Life を追求した街づくりに邁進する。1909年にはフランス公園(現、復興公園)を設立し、毎年パリ祭をここで祝った。そこに植えられたプラタナスは、いま上海全市に普及し、落ち着いた緑の優雅な街のたたずまいを形作っている。
「上海土地章程」が締結された年(1845年)末に、住宅11戸が建設され、外国企業23社が設立された。初期の段階で外灘に来た外国人は、大部分屈強な肉体の独り者で、一旗揚げる目的で上海に来た勝負師だった。彼らは有り余るエネルギーのはけ口を競馬に求めた。
1850年、海外企業の大班(社長)達は上海足包馬総会 (Shanghai Horse Race Society)を設立し、現在の南京東路と河南中路の交差点に最初の競馬場を建設した。馬場は東の外灘から河南中路に至る500mの距離に設定された。80アールに及ぶ馬場の中央には多くの木々や花が植えられたので、外国人はここを Garden と呼んだ。そこで外灘から河南中路に至る道路は“Park Road―派克路”と呼ばれた。これが現在の南京路である。一方上海人は外国人が馬場で競馬をするのを見て、そこを“馬路”と呼んだ。
競馬場周辺は租界でも最も賑やかな所となった。スポーツと娯楽はここに多くの消費をもたらし、近くに店が次々にオープンした。この時代英国租界の人口はたったの500人、中国人は夕暮れ前に上海県城に戻らねばならなかった。
中国人と外国人の分離は1853年に崩れた。この年の9月、上海県城内で小刀会の蜂起(満州族の清朝支配を覆し華人政府を作ろうとする運動)が起こり、多数の住民が租界に避難してきた。そのため租界の人口は500人から2万人に膨らんだ。人口急増の結果租界の土地の値段は急騰した。そこで更なる利益を求めて、Park
Road は10年間に3度も西方へと延長されることとなった。
最初の道路延長は、小刀会蜂起の2年後に起きた。競馬会の理事は、短期に巨額の収益が得られるチャンスと見て、最初の競馬場を元の数倍の値段で売却し、西蔵路と湖北路の間に2番目の競馬場を作った。Park Road は現在の浙江路まで延長され、路面は石灰と砕石で舗装された。この幅7.5mの道路は“Great Road―大馬路”と呼ばれた。
大馬路は広く、租界の土地は流入人口により値上がりを続けたが、 それでもPark Road 全体が繁栄を謳歌した訳ではなかった。Park Road は競馬場の東にあって、外国人はそこに会社や銀行、ベーカリーなどの店を構えたが、競馬場の西側にはカフェや質素で粗末な木製の建物の店があるだけであった。逆にこの時代、福州路、広州路には上海県城からの難民が集まったため Park Road より遥かに賑わった。これら難民は茶館、烟館、妓院、賭博場など様々な店を開いたので、一時期福州路と広州路は Park Road より遥かに賑わいを見せた。
しかしこうした事態は4年後に変わることになる。1862年李秀成が太平天国の反乱軍を率いて上海を攻めると、更に多くの難民が租界に押し寄せ、その結果租界の中国人人口は50万に膨れ上がった。土地の値段は急騰し、競馬協会の理事は再度棚ぼた式のぼろ儲けのチャンスを手にすることとなった。彼らは第二競馬場を売り払い、第三競馬場を現在の人民広場に建設した。Park
Road は2度目の延長計画を完了し、西側は西蔵路まで延びた。路面舗装は玉砂利に変わり、道路幅も7.5mから15mに拡張された。
不動産売買の波が租界に津波のように押し寄せた。中でも外灘とPark Road の土地の値上がりが最もひどかった。例えば、1852年から1862年の10年間の値上がり幅は200倍にもあがった。
不動産投機は、租界に歪められた繁栄をもたらした。Park Road が西に延長されると、更に多くの店と住宅が両側に建てられた。揚子江下流の西部地区の資産家は、戦争の災害を避けるため何とかして租界に入り込もうとした。歴史の長いブランドショップもPark Road に店を出した。上海の商業中心は、上海県城からPark Road に移った。
Park Road の3度目の拡張工事は1865年に行なわれた。工部局は戦争に備えてPark Road と泥城浜の間に軍事道路(現、西蔵路)を建設した。この際 Park Road は静安寺まで延長された。
1865年、租界当局は彼らに巨額の利益をもたらした南京章程を記念して、Park Road を南京路と改名した。だが一般の人は相変わらず南京路を“大馬路”と呼び、九江路、漢口路、福州路、広東路をそれぞれ、二馬路、三馬路、四馬路、五馬路と呼んでいた。
上海が開港された初期の時代、南京路の主要な乗り物は輿(Sedan
Chair)であった。1885年スミスなる外国人が上海で始めて4輪馬車に乗って外灘に現れた。それまで同治帝の初期時代には、戦火の混乱を避けてやってきた避難民と一緒に、品物や人を運ぶ1輪や2輪の手押し車が租界に持ち込まれていた。1874年には日本から人力車が導入された。自動車が発明されて15年経った1901年に、ハンガリー人
Leine は上海に初めて2台の自動車を輸入した。
1908年3月5日、南京路に新たな乗り物が登場した。上海初の鉄道(市電)である。しかし上海人は誰もそれに乗る勇気がなかった。何故なら当時の人力車協会が自分たちの利益を守るため、市電に乗った者は誰でも感電して死ぬと宣伝したからだ。そこで英商電車公司(British Railroad Car Corporation )は大々的な市電開通式を計画し、24名の著名人や有力者を招待して、市電に乗せた。彼らは市電の窓辺に立ち、運転中元気に楽しげに談笑したので、誤った噂は自然と消滅した。市電の成功は、この時代南京路が世界で最も進んだ交通手段を持ったことを意味した。
電話は1881年、世界に始めて登場して数ヶ月後に南京路に持ち込まれた。1882年3月、中国で最初の電話交換機が大北電報公司に導入された。その4ヶ月後、最初の街灯が南京路に灯った。市電が走った同じ年の1908年に、中国最初の電動エレベータが南京路の匯中飯店(Palace
Hotel、現、和平飯店南楼)に据えられた。
南京路には街灯が灯ったが、歩行者と車の衝突事故が多発して、安全とは言えなかった。そこで工部局(SMC)は南京路に歩道を設置し、車道は5.5m、歩道は1.2mと規定した。こうして南京路は、歩道と車道を分離した中国初の道路となった。同時に始めて交通規則を定め、車と輿(Sedan)は車道を、そして左側通行を守るよう規定した。
工部局が定めた規則のあるものは、中国人に対する多くの差別を含んでいた。例えば中国人の乗る車は、外国人の乗る車を追い越してはならない。また匯中飯店は中国で最初の近代的ビルであったが、そのトイレは中国人の使用を禁じていた。
1854年第二次土地章程が成立すると、租界はいよいよ恒久的なものとなった。同時に英米仏三国は租界を管理する最高行政機関として工部局(SMC=Shanghai
Municipal Council )を創設した。
また、太平天国軍が上海に迫まると、租界の防衛のため、工部局万国商業団体は1854年に義勇軍(SMC International Volunteer Corps )を組織した。以後創立記念日の4月4日には毎年南京路でパレードを行った。この国際義勇軍は実際には工部局軍隊で、会員は主要外国企業のビジネンスマンであったところから、国際義勇軍と呼ばれた。1880年代以降工部局の財政が豊かになるに従い、国際義勇軍の警察業務は大きく拡大された。工部局は増え続ける財力と軍事力を使って清朝政府に譲歩を迫り、次第に彼らの力を排除して行った。こうして工部局は当初の地方自治機構から、独立した行政統治権を持つ最高の行政機関に成長して行った。租界は中国内の別の独立国となったのだ。
工部局は南京路の市政庁で年2度董事会を招集した。董事会は工部局の最高決議機関であった。董事会メンバーは、外国企業の大班か、富を求めて上海にやって来た外国人移民の利益を代表する指導者であった。工部局により定められた法律制度は、外国人企業家が最も活動し易く、彼らが上海に強固な経済基盤を築けるように作られた。また殖民者のために各種の障害を廃除し、彼らが巨万の富を蓄積する手助けをしたのだ。一方で工部局は、上海を世界に羽ばたく国際都市に押し上げる原動力となる役割も果たした。
1862年の北華捷報(News
of Victory from North China)によれば、英国が毎年上海から上げる富は1300万ポンドに上った。これは英国が印度貿易から得た収入の3倍、1852年の英国国家財政収入の半分以上を占める額であった。そのうちの60%は、阿片から上がる収入であった。
1840年後半になると、上海は広州を抜いて中国最大の阿片輸入港となった。1847年上海から陸揚げされた阿片は、全中国の輸入量の半分を占めた。1858年まで、阿片は合法的な外国製医薬品として輸入されていたのだ。阿片貿易は正に外国企業が上海で稼ぐ主要な手段であった。
上海が開港した当時、南京路と外灘の外国商社はほとんどが阿片貿易に従事していた。怡和洋行(ジャデイーン・マセスン)は、20年も満たぬ短期間に、阿片貿易で100万英ポンドもの巨額な利益を上げた。上海では、阿片の喫煙は従来からの中毒者の欲求に答えるためだけでなく、むしろ一種のファッションでもあった。1900年代初頭まで、上海には1500箇所もの阿片販売店や烟館(阿片喫煙所)が作られ、阿片の喫煙所が喫茶店やレストランより多いといった奇妙な現象が現出していた。
外国商人が狂気のように上海で富を漁る一方、南京路では同時に乞食や貧乏人から成金者に這い上がる多くの中国人商人を生み出した。彼らはほとんどが外国人阿片商で働く“買弁”であった。買弁は外国商社の下請けとして働き、外商から手数料を得て中国国内の商品売買を代行した。
この時代ある買弁は、当時最新流行のロールスロイスで南京路を疾走し、郊外で豪遊するほどの実力を備えた。先に裕福になった買弁は、上海に消費経済をもたらした。消費は上海人にとって高い見分と自己の証明となった。
更に多くのモダンガールが先施百貨店に殺到した。永安百貨店のショーウインドーは流行の高級品で飾られ、虚栄に満ちた贅沢な流行が上海に広がり始めた。ビジネスマンは贅沢な消費で自己の財力を誇示し、一般大衆も彼らなりの方法でその流行を追いかけた。上海はまさに消費天国となったのだ。
清代の「大清会典」では、特別な位の衣装は一等級の人士に限り着ることが許されると規定されていた。しかし商業社会に踏み込んだ上海人は、こうした規定を全く無視し、“万人が絹やサテンの服を着た”。生まれや身分は着ている物からは判断できず、誰もが好きなものを着て堂々と自己を主張する時代となった。その後 “派手な服装にしゃれた靴”は、長い間南京路の上海人の伝統となった。
1920年代、南京路には300軒の商店が軒を並べ、中国中で最も華やかな商業中心となった。1930年代までに、4人のオーストラリア華僑が南京路に4大デパート:先施(1917年開店)、永安(1918年)、新新、大新を出店したことで、南京路は繁栄期を迎えた。消費者は世界中の品物を何でも手にすることができた。こうして南京路は、太平洋の西側で最も賑やかな繁栄した街としての栄誉を担い、パリのシャンデリゼ、ロンドンのオックスフォード通り、ニューヨークご五番街と並んで世界の著名な商業都市として位置付けられることとなった。
一方黄浦江沿いの外灘には、列強各国が争って時代の先端を行く建築物を次々に構築した。1868年に黄浦公園(
Public Garden )が設立され、「犬と中国人は入るべからず」の掲示が中国人の憤激を買った。英国領事館は1872年に設立された2度目の建物が今も残る。匯中飯店(Palace
Hotel,現和平飯店南楼)は1906年に、紗遜大厦(Sasoon House,現和平飯店北楼)は1919年に設立された。匯豊銀行(HSBC=Hong
Kokng & Shanghai Bank)は1923年に設立された二度目の建物が今も外灘を睥睨している。旧東京銀行の全身・横浜正金銀行上海支店は1893年の設立だ。その他上海税関(1927年)、中国銀行(1928年)など、1920年~30年に建てられた個性豊かな24棟の建築群が、他に類を見ない景観を現出している。夜間イルミネーションに輝くこれらの建築群は、いま上海を代表する観光資源となっている。
この時代、外灘はアジアのWall Street,世界の金融センターとなっていた。それを如実に語るものが今もHSBC(現、浦東発展銀行)に残されている。美しく彫刻された当時のままの回転ドアーを抜けると、そこは8角形の中央ロビーで、ドームの天井には8面のモザイク画が燦然と輝いている。この天井画はHSBCが当時支店を置いた8都市を描いたもので、香港、上海、バンコク、カルカッタ、ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京である。当時の英国インドの首都・カルカッタを除けば、これらの都市は今でも世界の金融センターとして、その地位に揺ぎがない。同じく描かれた8文字の社是には、次のように記されている、“Within the four seas all men are brothers”。まさに世界に飛躍した上海の力を、十二分に示しているではないか。
こうして、アヘン戦争による南京条約を契機として生まれた上海の租界は、いずれの国の主権にも属せず、納税者が構成する納税人会議が統治する独立自治の国際都市として発展した。その後共同租界として最盛期を迎えたが、そこには日本も、第一次・第二次世界大戦を経て衰退する欧米の穴を埋めるように参画した。更に日本は1941年最終的に共同租界を接収し、敗戦までの3年半、租界を単独統治した。この期間上海には、現在の2倍以上、10万を超える日本人が住んだのだ。しかし1945年日本の敗戦により、租界の歴史はすべて終焉を迎えた。
こうした過去を持つ上海では、しゃにむに近代化路線を驀進する現代の上に、特異な歴史を持つ過去を重ねて見ることが必要である。上海はそうすることで初めて、欧米の諸都市とも、また北京や西安とも異なる、その特別な魅力と意味を訪れる者に語り掛けるのだ。
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