旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)

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黄浦江に沿って外灘に並ぶ1920~30年代の華麗な建築群の中で、今も一際目を引くのは旧香港上海銀行上海支店だ。そのドームを頂いて建つ新古典主義様式の建物は、正に外灘を睥睨している。当時それは“スエズ運河からベーリング海までの間で最も素晴らしい建築”と賞賛された。

香港上海銀行は1864年8月香港で設立された。正式名称は“Hong Kong Shanghai Bank (HSBC)”と言ったが、香港の中国人は“匯豊銀行”と呼んだ。上海支店は香港創業のすぐ翌年に設立された。

南京条約により上海が開港し租界へと変身して行く20年の間に、アヘン貿易商は当時巨額の富を蓄え、匯豊銀行(HSBC)もまたこの間にかなりの富を蓄積した。

匯豊銀行は、当時上海の外為市場の60%以上を扱い、1865年から1927年までの間、中国政府に合計82回、3.5億白銀の借款を与えた。借款は中国政府の関税と塩税を担保にしたものであり、中でも李鴻章は500万両銀を借款し、太平天国の乱の平定に利用した。

20世紀初頭、匯豊銀行上海支店の営業は対中国取引の中核をなしていて、その取扱額は香港本店を遥かに凌いでいた。20世紀に入り外灘の建物が高層化するにつれ、匯豊銀行の社屋も建て直しの計画が何度かあったが、第一次世界大戦の影響で実現しなかった。

1920年、外灘は既にアジアのWall Street, 金融センターに発展しており、HSBCもその名声に相応しい建物を発注することが急務であった。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)1921年5月5日、匯豊銀行はいよいよ新社屋建設に踏み出し、外灘12号(現中山一路12号)に鍬入れ式を行った。地中に各国通貨を埋め、中国風の風水師が吉祥を祈願した。

建設に当たっては、1920年当時の頭取・A.G. Stephensの意図に従い費用に糸目を付けず、他のどの建物より壮大で豪華、“外灘を支配するような建物”を目指した。それは銀行が、旧上海で巨額の財産を蓄積した人々が安全に預金できる所と感じると同時に、がむしゃらに富の追及に励む冒険者達が、租界の発展と共に尊敬すべき紳士や企業家に変身してゆく際に、彼らの自尊心を満足させるような、十分権威のある建物とするよう意図されたのだ。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)そしてその意図は正に的中した。内乱の続く中国で、官吏、商人、資産家は国内銀行に預金することに資産保全上大きな不安を覚えていた。そこで1923年匯豊銀行の新社屋が完成すると、その壮大な建築を見て安心し、争って匯豊銀行に口座を開くこととなった。中国の民族系銀行自身でさえ、度々匯豊銀行に預金し、匯豊銀行の封印のある紙幣を引き出して顧客に渡すことで、彼らの後ろ盾に匯豊銀行がいるとお客に思わせて、お客の安心感を買った。

香港上海銀行は、敷地面積9,338平米、建築面積32,000平米、地下1階、地上5階、中央部7階建てである。建築面積はほぼ正方形で、建築資材のほとんどは海外から調達された。1923年6月23日の落成式には、中国内外の著名人が祝賀に駆け参じ、長蛇の列を作った。

建物正面は壮麗な古典主義様式で、表面に花崗岩を積み上げ、2階から4階までバロック式の2本一組の石柱が2組貫いている。建築資金は銀800万両を要した。それは香港上海銀行の2年分の利益に相当した。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)建物正面では、英国で鋳造され精緻を極めた2匹のライオンが正面入り口を守っている。彫刻家 Henry Pooleにより創られた青銅製の4匹のライオンは、2匹が香港の本店に、2匹が上海支店前に置かれた。“慎重さと安全性”と名付けられた二匹は、銀行に最も必要な資質を表すと言われる。今ある2匹は戦後新たに造られたものだが、本物の1匹は、何故か東方明珠テレビ塔の下の上海歴史発展美術館に飾られている。

建物正面の彫刻の施された3枚の青銅の扉を抜けると、そこは8角形の中央ロビーで、ドームの丸天井に描かれた輝くばかりのモサイク画が目を奪う。息を呑むほど美しく複雑なモザイク画は、ヨーロッパの教会のようだ。ドームの中心には、太陽の神アポロで、“太陽が沈むことが無い”と言われた大英帝国のシンボルであった。

ドームを囲む8つの壁面には1923年当時香港上海銀行の支店があった8都市と、8文字の社是“Within the four seas all men are brothers” が描かれている。8都市は、香港、上海、バンコク、カルカッタ(当時の英国インドの首都)、ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京で、これらは当時の世界の金融センターであった。それらはカルカッタを除けば、80年を経た今も世界の金融と権力の中心で、その地位に変わりがないことに驚かされる。

社是は、恐らく孔子の論語「四海の内、みな兄弟なり」から採られたと思われるが、世界に羽ばたいたHSBCの実力と意気込みが、まざまざと伝わってくるではないか。

ドームの周りには他にもモザイクで十二支が描かれ、ラテン語で、思慮分別、誠実、節制を含む16の徳目が描かれている。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)8角形のドームは、その奥の広々とした営業ホールへと繋がっている。ホール全体はアーチ式ガラス天井で覆われ、壮麗な8本の継ぎ目なしのイタリア大理石の石柱が2千平米のホールを支えている。柱は重さ7トン以上で、この大きさの大理石柱はパリのルーブル美術館など世界に6箇所しかない。壁面も床も同じく大理石で覆われている。

大ホールは暖房設備だけではなく冷房設備まで備え、13台の電気エレベータが稼動した。地下には大金庫が置かれ、上層階には各国商会の事務所は入った。

銀行の南西の角には、中国人顧客のための別の銀行窓口があり、旧上海時代には中国人は福州路側の別の入り口から入れねばならなかった。今でもHSBCと彫られた重厚な扉が残っている。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)1935年、南京の国民党政府が銀本位制を改め法定紙幣(兌換券)を発行した際、財政部長・宋子文は匯豊銀行に借款を申し入れた。南京政府が銀を匯豊銀行に納入し、匯豊銀行は0.3%の低利で200万英ポンドの借款を与え、紙幣発行に対する保証金とした。匯豊銀行の金庫には、数千万両の金銀が納められ、国際的な為替取引を通じて為替相場で莫大な利益を得た。

太平洋戦争が勃発すると、日本軍は匯豊銀行を接収し、建物は横浜正金銀行の管理に移された。しかし1945年、日本の敗戦とともに元に戻された。

共産党政権成立後、中匯豊銀行は大幅に業務を縮小し、営業停止に近い状態に追い込まれた。1955年4月26日、匯豊銀行頭取、姚克紹は歴年来の未納税額に対する代償として、上海支店を上海市政府に譲渡した。同年上海市政府は旧匯豊銀行を改修し、市庁舎とした。

改革解放後、外灘を再度金融センターにする計画が起こり、1995年7月1日上海市政府は旧匯豊銀行ビルから人民広場に新たに建設した新市庁舎に移転した。

1996年12月、浦東発展銀行が旧匯豊銀行ビルの使用権を獲得し、巨額の費用をかけて本来の姿に改修した。厚い漆喰で完全に覆い隠されていた天井のモザイク画が発見されたのは、その時であった。浦東発展銀行の改修工事により、匯豊銀行は近代優秀保護建築としてかつての輝きを取り戻した。

旧香港上海銀行(現・浦東発展銀行)香港上海銀行上海支店は、正に租界の象徴であった。その歴史を知る者にとって、いまでも外灘の中心、いや上海の中心的存在である。しかし今、外灘には香港上海銀行は存在しない。森ビルが浦東に作ったビルを買収して移転したのだ。香港を本拠とするHSBCの世界における実力は、今も変わりのないこと知っても、やはり寂しさを禁じえない。昔の建物のままで、営業を続けていて欲しかったと思うのは、旅人の感傷であろうか。

外灘は、訪れる者に現代に繋がる上海の20世紀の壮大な歴史を語り続ける。外灘の旧建築は、いま次々に改築され、超高級ブッテイックやレストランに変貌しつつある。外灘に象徴される上海は、21世紀何処へ行くのか。世界の金融センター・上海は、再度復活するのであろうか。それを世界が見守っている。

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