上海に宋三姉妹の跡を訪ねる

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宋耀如(嘉樹)がキリスト教宣教師として帰国したことから始まる宋家の歴史は、靄齢、慶齢、美齢の三姉妹が各々伴侶を得て独自の道を辿り、中国近代史、ひいては東洋史全体の流れに大きな影響を与えた。13歳で米国留学し、帰国して大財閥の御曹司、孔祥煕と結婚。夫は後に国民政府財務部長(財政相)となった靄齢。14歳で同じく米国留学、革命家孫文と結婚、孫文亡き後も夫の意思を継いで中国革命に殉じた慶齢。10歳で米国留学、得意な語学で蒋介石を助け、台湾の運命を作った美齢。各々は上海で生まれ、上海に多くの足跡を残している。三姉妹の生涯を辿り、近代史の中で三姉妹が果たした歴史的な役割と、彼女たちを生んだ上海に残る足跡を振り返ってみたい。

アメリカに渡る宋耀如

三姉妹の父親、宋耀如(嘉樹)は、海南島海口市の南東70k、文昌市昌灑鎮古路園村で生まれた。今でも生家が残っている。米国で茶の販売をする伯父の養子となったことで、姓が韓から宋に変わった。1875年、11歳で伯父について米国に渡る。パナマ運河のなかった時代、南米大陸南端のホーン岬を回り、はるばる東部ボストンまでの船旅は大変であった。

耀如が店で働いていた13歳の時、たまたま中国教育使節団の一行2名が訪れ、耀如を見てお茶など売っている代わりに教育を受けるべきだと説得した。しかし彼は宋家の反対に会ったため家出をし、停泊中の船の積荷の間に乗り込んで密航した。

船上で彼を発見した船長は、幸運にも彼の身柄を宣教師に託した。その結果、彼はバンダービルトの School of Religion へ入学。その後マサチューセッツ州ランドルフのメソジスト・トリニテイカレッジ、更にテネシー州ナッシュビルのバンダービルト大学神学部にと進んだ。彼の洗礼名は、Charles Jones Soon。海南島の一少年の運命は、新大陸で正に劇的な変貌を遂げたのだ。

宣教師・Charlie Soon の帰国

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる1886年、宋耀如は14年間の米国生活を終え、キリスト教伝道師として上海へやって来た。この時代、彼は外国で教育を受けた極めて少数の中国人の一人であった。彼は同じメソジスト派のクリスチャンで、明代の科学者・徐光啓の末裔である名門の倪桂珍と結婚し、三男三女を設けた。宋靄齢、慶齢、美齢、子文、子良、子安である。
(徐光啓1562-1633は42歳でカトリックに入信し、多くの科学書の漢語訳を行なった。彼の墓は、今も光啓公園内に大きな十字架と共に祀られ、徐家匯という地名も、彼の一族の名前に由来する。)

宋家の三姉妹が生まれた場所は、後年日本人租界となる虹口地区の東余杭路で、よく言われる浦東の川沙城内史第ではないであろう。耀如が牧師をしていた教会・景林堂( Hongkew Methodist Church )も、建物は新しくなったが、同じ地区に現存する。

耀如は聖書の印刷・出版で成功を納め、次第に企業家としての立場を固めて行く。やがて革命家・孫文と会い、家族ぐるみで革命を支援することとなる。孫文の革命に関するパンフレットや宣伝物は、耀如が経営する印刷会社で印刷された。こうして一家は孫文の革命運動のスポンサーの役割を果たすこととなった。

中西女塾

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる宋耀如が米国で教育を受けた時代、宗教界でさえ人種差別が残り、中国人は聖職者になれなかった。しかし宋耀如を聖職者として認可した者がいた。耀如が卒業した Vanderbilt University の総長・Holland McTyeire 司教である。彼は南部メソジスト伝道団の有力な指導者であった。

彼は、中国では女性に教育は必要ないと思われていた時代、上海に女学校を設立した。教師は全員外国人で、教育は英語で行なったのだ。学校の名は中西女塾( McTyeire School) 、場所は人民広場の来福士の前、現在沐林堂(Moor’s Memorial Church)がある場所である。

耀如はここで日曜学校の校長を務めたので、宋家の三姉妹もここで教育を受けることとなった。長女・靄齢が5歳で入学させて欲しいと言われた時、女性校長の Helen Richardson は家庭教師となって援助した。年齢のかなり上の子ども達の中で、早熟の靄齢は皆に可愛がられ、深い印象を残したと言われている。

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる中西女塾を卒業した宋家の三姉妹は、その後そろって米国留学を果たす。1904年靄齢が13歳でジョージア州メイコンのWesleyan Female College の総長宅に寄宿し、1年間の予備教育の後同大学に進学し卒業する。慶齢と美齢は、靄齢を追って3年後の1907年共に同大学へ進学する。慶齢14歳、美齢10歳であった。年齢の低い美齢は、早期教育特別生となり、同宿舎で慶齢と生活も共にするが、後年東部の名門、Massachusetts Wesley 大学に移り、ここで米国社会の多くの有力な人脈を形成することとなった。

McTyeire School の伝統は、今も立派に生きている。1917年、学校は手狭になったため人民広場から地下鉄2号線、江蘇路駅のすぐ北側に移転した。現在は上海第三女子中学校として、その卒業生の殆どが大学進学を果たす屈指の名門校となっている。初代校長の名前を冠したRichardson Hall は、Park Hotel(国際飯店)など多くの有名建築を上海に残した名匠Hudic の設計になる校舎が、美しいステンドグラスと共に今も残っている。

宋靄齢の結婚

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる辛亥革命の結果、1912年孫文が南京で中華民国臨時大統領に就任した時、彼を支えた宋耀如と孫文の秘書となった長女・靄齢も共に式典に参加した。しかし孫文が袁世凱によりその地位を追われたため、耀如は靄齢を伴って東京の霊南坂に避難した。そこで靄齢は孔祥熙と会い、結婚することとなった。

孔祥熙は孔子の75代目の末裔と言われ、彼の実家は山西省の資産家で、手形交換所(銀行)を持っていた。即ち晋商(明・清代に中国中の金融を支配した貿易商で、彼らにより中国の近代的な銀行制度は確立した)の一人であったろう。孔祥熙は大財閥の御曹司だったのだ。彼はまた米国 Oberlin CollegeからYale大学を卒業した秀才で、当時東京の中国人YMCAの総幹事を務めていた。耀如は靄齢の結婚相手として、彼以上に相応しい人材はいないと思ったであろう。

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる孔祥熙は帰国後1923年に産業商業省長官となり、その後大蔵大臣、中央銀行総裁、国民党中央委員などを歴任、中国有数の資産家に成長する。

孔一家の資産形成については、美齢と宋子文が米国からせしめた抗日戦線のための10億ドルの軍事援助の相当額が靄齢・孔祥熙一族に流れたとか、財務長官を務めた孔祥熙と靄齢によるによる、今で言うインサイダー取引に当たる株価操作など、黒い噂が絶えなかった。彼らは永嘉路や多倫街に数軒の住宅を残している。孔祥熙は1944年に米国へ移住し、1964年に死亡した。

宋慶齢の結婚

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる靄齢が孔祥熙と結婚することとなった時、慶齢が丁度米国留学を終え、帰国途中に日本へ立ち寄った。そこで、結婚する靄齢に代わり慶齢が孫文の英文秘書を引き継ぐ話しが纏まった。

慶齢は仕事を通じて孫文の理想に引かれ、彼と結婚することを決意する。孫文49歳、慶齢22歳、27歳もの年齢差があった。更に孫文には盧慕貞という妻がいた。1915年二人は父親の大反対を押し切って、東京九段下の軍人会館(現、九段会館)で結婚式を挙げた。

二人は帰国後、上海環龍路63号(現、南昌路59号)に住んだ。そこには、今は科学会堂新館が建っている。その後カナダ人華僑が資金を集めて贈った中山故居(現、香山路7号、孫文記念館)に移転し、共に革命運動に専心することとなった。

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる1925年、残念ながら孫文は革命半ばで北京で癌により急逝する。慶齢32歳。「革命未だ成らず。同志はなお努力せよ」が孫文最後の言葉であった。その言葉どおり、彼女は以後56年間、死ぬまで夫の言い残した革命路線をかたくなに守り、革命運動に一生を奉げることになる。慶齢は孫文亡き後も、香山路の住宅に1939年まで一人で住んだ。

宋美齢の結婚

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる1917年、美齢は20歳で米国留学から帰国後、兄弟と共に現在の陝西北路369号、宋公館に住んだ。

1927年蒋介石とMajestic Hotelで3000人の参列者を得て結婚式を挙げた。同ホテルはかつて南京路の伊勢丹から北方にかけてあった上海最大のホテルで、残念ながら火事で焼けてしまった。現在は美琪大戯院(Majestic Theater )に僅かにその名前を残している。

美齢と蒋介石の結婚については、姉の慶齢、兄の子文が共に反対した。理由は蒋介石には毛福梅と言う妻がおリ、更に16歳の女学生の愛人・陳潔如や、歌姫・姚治誠との浮名の噂もあったからだ。しかし靄齢は蒋介石の政治的、軍事的な力を見越して、二人の結婚を画策した。二人を鎮江付近の揚子江の中洲にある避暑地・焦山に10日間の見合い旅行に出したのだ。その結果二人は靄齢のもくろみ通り結婚することとなった。

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる宋家は二人の結婚に際し、宋子文が持っていた東平路9号の住宅(現、沙沙餐庁と上海音楽学院中東部)を結婚祝いに贈った。蒋介石は初めて得る私邸を大変歓び、ここを愛廬(Love Cottage)と呼んで、大きな石にその名前を彫った。その石碑は文革中に二つに割られたが、今は修復して過っての私邸前にある池の端に空しく立っている。彼らは1949年台湾に逃避した後、二度とこの家に帰ることはなかった。美齢がベランダに立って庭を眺めたであろう住宅は、今は一面蔦に覆われ、学園内に響くピアノの音がかすかに聞こえてくるだけである。

宋家の分裂

1927年蒋介石は「四.一二クーデター」を引き起こす。上海の労働者、総工会は、蒋介石の国民党北伐軍をゼネストと武装蜂起で市内に迎え入れた。しかし彼らの力に怯えた蒋介石は、彼らを弾圧、拠点を急襲して労働者の武装解除を図り、反対するデモ隊に発砲して多数の死傷者を出した。

この事は宋家を分裂させることとなった。蒋介石の国民党を支持する靄齢、美齢と、共産党を支援する慶齢は、子文を間に対立する。子文は何度も逡巡するが、結局慶齢の願いを振り切って国民党側につき、翌年蒋介石が設立した南京政府に協力することとなった。 彼は中山公園の北にある St. Johnes University(聖約翰大学、現・華東政法学院)を卒業し、1915年国費留学生として米国に渡り、ハーバード大学を卒業した逸材であった。

美齢は1943年蒋介石と共に米国を訪問、抗日戦のための巨額の軍事援助を獲得する。この資金は靄齢の孔一族を経由して、抗日戦線ばかりでなく、慶齢が支援する共産軍の攻撃にも多くが使われることとなった。

一方慶齢は、中国民権保証同盟を結成し国民党反動派に対抗すると共に、香港で中国民権保障同盟を設立。全世界の知識階級に共産党支持を訴え、共産党支配地区への軍事援助と医療補助に奔走した。

姉妹の運命

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる靄齢は日本軍の戦火を逃れて、1944年夫と共に米国に移住。1973年ニューヨーク郊外のリバーデールの屋敷で亡くなった。88歳であった。

慶齢はモスクワ、重慶と移住したが、1948年~63年まで、淮海路1843号の現在の宋慶齢記念館に住んだ。そこは庭に100年を越す楠木がいまも茂り、簡素な住宅は彼女の人柄が偲ばれる。

1949年上海が共産軍により解放された時、慶齢は毛沢東、朱徳、周恩来らを上海駅に出迎えた。その後彼女は中国協商会副会長、国家副主席を歴任、1963年か18年間を北京で過ごした。

上海に宋三姉妹の跡を訪ねる美齢は、1945年日本敗戦、1949年の共産党全国統一を経て、蒋介石と共に台湾に亡命。1975年に蒋介石が死亡すると米国へ移住し、2003年106歳の生涯を終えた。

1981年慶齢が88歳で亡くなった時、彼女は国家名誉主席に列せられ、彼女の故郷・上海の万国公墓に葬られた。そこは慶齢を記念して宋慶齢陵園と改名された。いま両親の宋耀如、倪桂珍と共に葬園内の宋家の陵墓に葬られている。

慶齢は、夫・孫文と共に南京の中山陵に葬られることより、両親の墓に葬られることを望んだのだ。彼女の望みは、恐らく宋一族全員が共に葬られることを切望したに違いない。しかし葬儀に際しては、既に米国で亡くなった靄齢や宋子文は無論、美齢さえ出席することは無かった。孫家を代表しては、孫の林家が参列しただけであった。

資料:上海に残る宋家の足跡

◇宋氏故居(生家) 東余杭路530号
◇景林堂(Hongkew Methodist Church) 崑山路135号
◇沐恩堂(Moor's Memorial Church,-McTyiere School跡) 西蔵中路316号
◇宋公館 / 上海宋慶齢基金会(三人姉妹住居) 陝西北路369号
◇宋慶齢記念館 淮海中路1843号
◇沙沙レストラン 東平路9号・衡山路口
◇上海音楽学院中等部(蒋介石・宋美齢私邸) 東平路9号
◇宋子文邸 永嘉路501号
◇孔祥熙邸 永嘉路383、385号、多倫街
◇孫文記念館 香山路7号
◇宋慶齢陵園・宋家陵墓 宋園路21号

宋家の系図

宋家の系図
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