
外灘の北、蘇州河にかかるガーデンブリッジを渡ると、ソ連大使館の前に古色蒼然としたホテルが現われる。浦江飯店だ。よく見ると古びてはいるが、ヴィクトリア朝のどっしりとした5階建ての建物は、いかにも曰くありげに見える。そう、ここはかって、上海一、いや東洋一の豪華なホテルだったのだ。
最初にホテルができたのは1846年。英国租界が生み出される原因となった南京条約が締結されて4年後で、上海港への感心が高まった時期であった。
当初は最初の所有者の米国人船長の名前を採ってリチャード・ホテルと呼ばれ、船乗りを対象に、19世紀の上海で多くのお客を集めた。
リチャード・ホテルに関する情報は少ないが、廊下や床の色やデザインが、船を思わせるものだったと言われている。
リチャード・ホテルは元来、蘇州河の Bund 側にあったであろう。何故なら、1855年まで蘇州河を渡る方法は、フェリーしかなかったから。英米租界の住民が不便に感じたので、英国の企業家が10名の株主を募り木製の橋を架け、自分の名前を採って Wills Bridge(威尓斯橋)と名付けた。彼は橋を渡る中国人からはその都度銅銭1文、車馬からはその数倍を徴収したが、外国人は年1回銀4両を納めれば何度でも渡れるようにした。このやり方は大いに物議を醸し、最終的には橋も代金回収方法も共に廃止された。続いて上海の工部局が浮き橋を作り、更に1907年には鉄製の橋を建設した。外国人はこの橋が Shanghai Public Garden の隣なりに架けられたためGarden Bridge と呼んだが、上海人は「外白渡橋―外国人の無料の橋」と呼んだ。
リチャード・ホテルでは、一連の船長がホテルの経営者として続いたが、恐らく地上の生活が彼らに適さなかったせいで、ホテルは1860年にHenry Smith に売られ、彼がホテルの名を Astor House Hotel と変えた。
何故 Astor House なのか。それは多分、米国の最も豊かな資産家 John Jacob Astorが1836年ニューヨークに建てた Astor House を連想させるように名付けられたのであろう。
Astor House はブロードウェイにあり、ニューヨークの最初の豪華ホテルで、各部屋に水道などの最新設備を備えていた。
脱線ついでに言うと、アスター家はその後4代目が、ニューヨーク一のウォルドルフ・アストリア・ホテルを建てたことで知られる。一族はウォール街を始めマンハッタンの大半の土地を買占め、電力、生命保険、通信、鉄道などを経営する米国一の超資産家であった。1912年ウォルドルフ・アストリアのオーナー・John Jacob Astor は、妻マドレーヌを伴って、世界一豪華な新造船に乗り込んだ。あのタイタニック号だ。船は氷河に激突して沈没し、救命ボートに残った唯一の席を最愛の妻に譲ったことで、彼は船と運命を共にした。John Jacob Astorの死は全米を震撼させ、全米の新聞はトップニュースで伝えた。
旧アメリカ大統領 Ulysses S. Grant は1879年に上海を訪れた際に、上海のアスター・ハウスに泊まった。多分それは Astor House と言う名前がアメリカと関連があるからか、または その名が豪華さを暗示するためか、或いは上海では他に泊まる所がなかったからかもしれない。
ガーデンブリッジができた1906年に、Astor House Hotel はガーデンブリッジの北端の現在の場所に移転した。それは間違いなく、土地代の安さとアクセスの便利さの二つの理由からに違いない。翌年から3年間に及ぶホテル建設が始まり、今日見る一区画に及ぶヴィクトリア朝の贅沢な美しいホテルが出来上がった。
ある歴史家は、次のように述べている。「白を背景に大理石の柱と赤い羽根板で飾られた見事な階段を登ると、エレベータと女性用のクローク、美しい家具の置かれた婦人用の居間、5,6台の快適なソファーと皮張りの安楽椅子を備えた読書室、磨かれたチーク材の張られた個室食堂、大きなビリヤードルームなどに至る。更に広々とした階段を登ると、メインダイニング・ルームにたどり着く。そこは回廊とベランダを備え、2階全体を占める広さで、波打つ樽状のガラス天井の照明が明るく照らしだしていた。 Astor Road 側には、象牙と金で飾られた素晴らしい宴会場とレセプション・ホール、6つの個室ダイニングがある。」
エレベーター6機、居間の付きの寝室、更に天蓋付きの豪華なスイート・ルームがあった。1910年に出た Social Shanghai の広告では、「Astor House Hotel は上海の中心、最も人気が高い最新ホテル」と謳われていた。
当時 Bundに横づけされた船から陸に上がり、泥だらけのぬかるみを通ってAstor Hotel に足を踏みいれた者は、天国にたどりついた気分になったと言われる。
1923年、Astor House Hotel はパレスホテル(現、和平飯店南楼)など他の上海のホテルと共に Hong Kong Hotels Ltd. に売却された。会社はそれを期に、Hong Kong and Shanghai Hotels Ltd.と改名した。現在もその名は変わっていない。
Astor House は新会社の旗艦ホテルとなり、その古雅なイメージは現在も同社のホームページの歴史的社史を飾っている。
Hong Kong and Shanghai Hotels はセファーデイク系ユダヤ人、Kadoories(カドゥーリ一族)の所有であるが、同家族は上海一の富豪の一人であった。Sir Ellis Kadoorie は1867年バクダットに生まれ、1880年 David Sassoon & Company で働くため上海にやって来た。上海に来た多くのセファーデイック系ユダヤ人と同様、そこを踏み台として独立、自らの財産を築いた。Sir Ellis Kadoorie と息子達;Lawrence とHorace は腕のよいビジネスマンで、頭のよいホテルマンでもあった。彼らの指揮下で Astor House は大いに繁栄した。
Astor House はトップクラスの豪華ホテルに相応しく、目新しいものは何でも最初に導入した。最初の電灯、最初の電話機、トーキー映画から舞踏会、そして女性は社会的行事に参加すべきでないと言った社会的束縛を打破したのも、最初であった。
地元の言い伝えでは、次のような話もある。アスターホテルのベルボーイがロシア人宿泊客の財布を拾い、無事に中身をそっくり返却した。お礼に1/3を貰い、車を一台購入した。その車は上海の最初のタクシーとなり、その後増車してJohnson Fleet に成長した。今では“強生タクシー”として知られている。
上海に来た有名人は全て Astor House に宿泊した。1920年哲学者バートランド・ラッセル、1922年アルバート・アインシュタイン、そして1927年には8歳の少女 Peggy Hookham が家族と共に逗留した。Hookham の父親は、British American Tobacco の技術主任で、会社は橋の向こう側のMuseum Road にあった。彼女は Astor House に滞在している間もバレーのレッスンを続け、ロシア人教師、ジョージ・ゴンチャレフの教えを受けた。今日彼女は、多分世界で最も偉大なバレリーナとしてMargot Fonteyn の名で知られている。
1931年もう一人の著名な芸術家がここに滞在した。チャーリー・チャップリンだ。彼はここが大変気に入り1936年ハネムーン旅行で再度やって来た。新婚夫婦は404号室に泊まったと言われている。
日本軍の上海占領中、Astor House Hotel は1941年に暫く日本YMCAとなり、占領期間中は他に貸し出された。
ホテルはその後数年間、更に苦難の時を過ごす。1949年解放後は、浦江飯店と名を変え、近代中国の最初の株式市場が同居した。終にはバックパッカーの定宿となり、豪華なスイートと居間は寄宿舎に変えられた。宴会場は無残に放置され、見事な内装は失われた。かつての栄光は,建物の細部に色あせて残るのみである。
しかし2006年 Astor Hotel はバックパッカー用の宿泊施設を止め、ロビー回りに大規模な改装を施した。株式市場となっていた1階の宴会場・孔雀の間(Peacock
Hall-156平米)は、嘗ての輝きを取り戻し、写真で見る通りの在りし日の姿を取り戻した。2階まで届く吹く抜けの大広間には、周囲に円形のテラスが幾つも張り出し、それに合わせて波打つ天井は明るくライトアップされている。3階は未だ古いままだが、ぎしぎしと軋む木製の廊下を歩み、アインシュタインやバートランド・ラッセルが泊まった部屋を見て回ると、20世紀初頭の上海の姿が彷彿して想い浮かぶ。上海はこんな街だったのだ。
かつてAstor House Hotel を所有していたKadoorie 一族のHong Kong & Shanghai Hotels は、今は香港ペニンシュラ・ホテルその他の持ち株会社である。中国では北京に系列のホテル(王府半島飯店)を持つが、上海では共産中国成立以降1棟も持たない。しかし今、外灘の北、旧英国領事館の地にペニンシュラ・ホテルの建設が始まろうとしている。Kadoorie が上海に帰ってくるのだ。彼らの故郷:初代 Ellis Kadoorie の墓や、豪壮な大理石の私邸が今も残る彼らの故郷に帰ってくる。彼らが今まで社名から「上海」を削らなかったのは、正にこの日のためであったに違いない。歴史は繰り返される。Kadoorieは現代の上海で、如何なる事業を展開するのか。新しい上海に興味が尽きない。