上海日本租界と多倫路

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多倫路街並み 蘇州河を越えた北側の虹橋地区は、かって日本租界と呼ばれ、10万人もの日本人が住んだ。しかし元来ここは、英国、フランスの後に遅れて来た米国が仕方なく選んだ租界地で、そこが英国租界と合体して共同租界となり、後年日本人もそこに相乗りしたのだ。標題の日本租界とは、あくまで外灘を中心とした共同租界の一部で、日本単独のものではなかった。

虹口地区には四川北路と呉淞路の2つの大通りが南北に走り、日本人はこの通りを中心に集住していた。特に四川北路のわき道・多倫路は、上海政府が日本人街として街並みを復元、整備したので、一つの観光スポットとなっている。

多倫街文化名人街

多倫路文化名人街 賑わう四川北路から「多倫街文化名人街」と仰々しく書かれたアーチを潜ると、道の両側には古い住宅や骨董品店、レトロなバーやレストラン、土産物やなどが並んで、1920年~1930年代の街並みを再現している。そもそも「文化名人」とは一体誰をさすのだろうか。魯迅だけでなく、多くの人がいたのだ。彼らを訊ねることは、明るい表通りとは裏腹に、暗い悲しい過去を覗き見ることになる。

鴻徳堂教会 鴻徳堂は、1928年に建てられたプロテスタント教会である。中国建築と西欧の折衷様式で、外観は伝統的な中国寺院、アーチ型の門の上部に鐘楼を備えている。かつて二階の主会堂では、毎日曜の朝700名もの信者が礼拝をした。

魯迅公園側の入り口には、著名な孔祥熙(H.H.Kung)の住宅もある(上海に幾つかある家の一つ)。彼は宋家三姉妹の長女・宋靄齢の夫で、国民党の財務長官を務めた。1929年建築のこの建物は独特なイスラム様式で、壁にはアラビア風の色タイルが嵌められている。

街には上海古代コイン博物館や南京時計館、1600種以上の箸が展示された箸館などもあり、ミニ・テーマパークのようだ。「文化名人街」と命名した上海政府の意図も、恐らくその辺にあるであろう。しかしここで思いを馳せるのは、この地区を中心に暮した戦前の日本人と、不法駐留した日本軍の戦闘の歴史、更にはこの付近に隠れ住み、中国革命に命を掛けた若い中国人活動家の思い出である。では僅かに残る街の佇まいから、彼らの物語を解きほぐしてみよう。

魯迅(ろじん)

この地区に住んだ最大の著名人は、「阿Q正伝」や「狂人日記」を書いた魯迅である。彼は1881年紹興に生まれた。彼の生家も私塾・三昧書屋も記念館として紹興に残っている。同郷には、夫と子供を捨て日本に留学し、満人の清朝政府打倒を叫んで処刑された秋瑾、初代の北京大学総長・蔡元培、周恩来などがいる。

雲景里 魯迅は1904年、23歳で仙台医学専門学校に留学、藤野厳九郎教授の薫陶を受けた。しかし2年で退学し、文学による社会改革を目指して帰国した。その後南京臨時政府の教育部員や、北京大学非常勤講師を務めた後、当時革命の熱気が渦巻く広州の中山大学で教鞭を取った。1927年10月、北京時代の教え子・許広平と駆け落ち同然で上海にやって来て、東横浜路景雲里23号で同棲する。これ以後内山完造や左翼文化人との交流が始まる。

その当時、内山書店は多倫街の南、四川北路西側の旧魏盛里にあった。一方近くの旧景雲里の魯迅の住宅の正面には、茅盾の家が、その隣は葉紹釣(聖陶)が、更にその隣に魯迅の4歳年下の弟・周作人が住んでいた。柔石の住まいは魯迅宅の反対側、郭沫若の家もすぐ近くの多倫路201弄89号にあった。彼らは皆国民党の疑惑を避けながら社会革命を目指す活動家であったので、この地域はさながら革命家の集結地であった。左翼文化運動の中心・創造社出版部も1927年5月に四川北路麦拿里(マグノリア・テレス)41号に引っ越してきた。彼らがこの地に集まった理由は、四川北路が共同租界と中国人街の越界路であり、この地域は英米日が管理する共同租界と中国人街が複雑に交錯していて、中国国民党の支配が及ばなかったためである。しかしすぐ近くの四川北路が北へ曲がる角には、日本陸戦隊本部があり、2度の上海事変(1932年、1937年)の際はここから出撃した日本軍は、中国軍と隣の閘北地区で激烈な戦闘を交えた。

魯迅故居 1927年4月12日、蒋介石は各地の軍閥支配を覆すため広州で北伐軍を組織し、北上して上海に迫った。上海総工会と大学は全市を挙げてゼネストを敢行し、北伐軍を迎え入れた。しかし労働者階級の力を恐れた蒋介石は、白崇禧軍を使って左翼勢力の弾圧に転じた。4.12反共クーデターと呼ばれる。これ以後左翼活動家は、国民党の迫害を避けるため地下に潜ることとなった。魯迅は歴史の転換期となったこの年の10月に、広州から上海に転居したのだ。彼は国民党の目を逃れるため、内山完造の助けを借りてこの地域を転々としながら、文学による改革運動を続けた。最後は1936年、ほど近い山陰路132弄9号の3階建て石庫門住宅で55歳の生涯を閉じた。肺結核であった。魯迅が亡くなると、妻の許広平は直ちに日本の憲兵隊により拘留され、厳しい尋問を受けた。その憲兵隊本部は、今も四川北路と武昌路の角に民間アパートとして残っている。

魯迅の墓 魯迅の遺骨は、一旦万国公墓に葬られたが、その後現在の魯迅公園の中に移されている。彼の故居は、現在記念館として一般公開されていて、許広平と息子・海嬰と共に暮らした生涯最後の3年間を偲ぶことが出来る。

内山完造

内山完造像 1913年大学目薬本舗・参天堂の出張員として中国に渡る。1924年、四川北路の自宅で美喜子夫人の内職として内山書店を開設、キリスト教関係図書の販売を始める。やがて一般図書も扱い、上海随一の日本書書店に発展させた。彼はクリスチャンとして、日本人、中国人、朝鮮人の区別なく掛売りを行い、愛書家への奉仕に徹した営業を行なった。また店舗内で「文芸漫談会」を組織し、元日本留学生であった魯迅、郁達夫、田漢、郭沫若など、彼の書店を贔屓にする中国知識人を招いた。谷崎潤一郎は1924年来訪の際、彼の紹介でこれらの中国文人たちと会談した。翌年来訪した佐藤春夫も同じく内山完造の世話になった。

1947年、彼は国民党政府転覆陰謀の容疑で強制帰国させられる。戦後の1959年中国政府の招きで北京を訪問中、歓迎晩餐会会場で脳溢血で倒れ、この世を去った。遺骨は万国公墓・宋慶齢陵園に葬られている。

内山書店跡 1929年、最期に移転した内山書店の旧址は山陰路2弄3号にあったが、現在は中国工商銀行となっている。壁に記念のプレートが残るのみで、往時の姿は見られない。しかし2階には記念の展示室があり、頼めば上げてくれる。

左翼作家連盟

1930年代までの上海では、魯迅、茅盾など既成の左派系作家と創造社や太陽社の急進的な若手革命家との間で激しい論争が発生した。しかしやがて左派の大同団結の気運が高まり、1930年3月に左翼作家連盟が成立した。結成大会は多倫街201弄2号の中華芸術大学で行なわれた。ここはいま、中国左翼作家連盟会址記念館として、一般公開されている。

左翼作家連盟 社会改革のための文芸の大衆化を旗印に、当初夏衍など参加者数十名で始まった運動は、やがて百数十名に膨れあがり、国民党の厳しい弾圧を掻い潜って活動を続けた。労働者や農民が自分たちの声を挙げられない時代に、彼らが代わって声を挙げたのだ。こうした真面目で才能豊かな若者の多くは、活動の中で傷つき死んでいった。彼らは、いま龍華の烈士陵園に葬られている。

左翼作家連盟5名処刑記念碑 1931年、柔石など左翼作家連盟の5名とその他二十数名が、租界当局により集団処刑された。魯迅が愛した青年詩人・殷夫(いんぷ、21歳)もそうした者の1人であった。魯迅は彼の死を悼んだ追悼の詩を発表している。後に左翼作家・丁玲(ていれい)の夫・胡也頻(こやひん、28歳)も幼児を残して殺された。左翼作家同盟記念館の庭には、彼ら二人と、共に処刑された柔石(じゅうせき、29歳)、李偉森(28歳)、馮鏗(女性24歳)の死を悼む記念碑が残されている。括弧ないは、処刑された当時の彼らの年齢である。

芸術劇社

四川北路麦拿里に移転した創造社は1929年2月、国民党により閉鎖された。そこで多くのメンバーは新たに芸術劇社を立ち上げた。左翼作家連盟、左翼演劇家連盟なども加わっって、1930年1月に第一回公演として「西部戦線異状なし」を上演した。場所は現在の四川北路1800号、上海歌舞伎座である。ここは千人を収容する花道付きの純日本式劇場であったが、今は取り壊されて見ることができない。夏衍は手製の照明器具やスポットライトを工夫して上演に望んだが、直ぐに工部局警察に踏み込まれて閉鎖の憂き目に会った。

尾崎 秀実(ほつみ)

虹口地区に住んだ者でもう1人忘れられない人がいる。尾崎秀実だ。彼は1928年11月、朝日新聞特派員として上海に来て、山陰路花園里に住んだ。彼はここで魯迅や創造社のメンバー、また米国のジャーナリスト・アクネス・スメドレーなどと親交を結んだ。

1930年、フランス公園(現・復興公園)脇の重慶路185号、呂班公寓(現・重慶公寓)に住むアグネス・スメドレーから、米国新聞記者ジョンソンを紹介される。即ちソ連・コミュンテルンのスパイ、リヒャルト・ゾルゲだ。

山陰路花園里 1932年、尾崎は第一次上海事変の際帰国したが、その後も日本でゾルゲと親交を結び、彼のスパイ活動を助ける。1941年遂に発覚して検挙され、1944年処刑された。二人は理想社会として共産主義国家を夢見て、その主義に殉じたのだ。戦前の日本を震撼させたスパイ事件も、発端は上海から始まった。彼の家は魯迅故居から山陰路を越えたすぐ近くにあった。今この辺りを訪ねても、残念ながら彼の住んだ住宅を特定することが出来ない。

金子光晴

金子光晴寓居 詩人・金子光春は、「生計の当てもたたず、風待ちの舟のように、ただあてのない運命と偶然の誘いを待って」、ふらりと上海を訪れた。一度目は1926年に国木田独歩の息子、国木田虎雄夫妻と2ヶ月遊んだ。余慶坊の部屋を世話したのは、内山完造であった。二度目は1928年、自由恋愛の末に子供を生ませた御茶ノ水高等師範の女学生、森三千代を伴って上海に来た。長崎弁なまりの家主、“石丸りか”から同じ余慶坊123号の2階を借りて、当てのないその日暮らしを続けた。後に彼は「どくろ杯」を書き、経済的にも精神的にも追い詰められて、同じ様に日本から「上海に落ちてきた」人々と当時の日本人社会を、枯れた独特の文体で描き出した。

その他の多倫街付近に残る歴史的建物

旧北部尋常高等小学校◆ 日本尋常高等小学校
四川北路1844号、現・区教育学院実験校
1917年創立。日本国内ではまだ木造校舎が一般的であった時代に、ドイツ人設計による鉄筋4階建て校舎を建てた。四川北路に面した商店街の間に細い入り口があり、注意しないと見逃してしまう。守衛に言って校舎を外から見学させてもらうとよい。

旧福民医院◆ 福民医院
四川北路142号、(尋常小学校の隣り)、現・上海市第四人民医院
1924年設立、日本人医師・頓宮寛が開いた総合病院。魯迅も知り合いの中国人患者の通訳として時折手助けをした。魯迅の息子・海嬰も、また、日本の親英米派外交官・寺崎英成の娘「マリコ」もここで生まれた。魯迅危篤に際しては、福民病院と石井医院の医師、看護婦が駆けつけた。

◆ 石井医院
四川北路、福民医院の向かい。
国民党に追い詰められた郭沫若はソ連亡命を企てるが、発疹チフスにかかり石井医院に入院した。回復後は再度日本へ亡命した。いまは商店街となり、昔の姿は見られない。

海軍陸戦隊本部◆ 日本海軍特別陸戦隊本部
四川北路と東江湾路の角。
居留民保護を名目に違法駐留した海軍陸戦隊の駐屯場所。1932年第一次上海事変後ここに鉄筋コンクリート4階建てのビルを建設した。1937年の上海事変の際は、ここから出撃して、陸軍部隊が上陸するまで中国軍と市街戦を展開した。現在も中国解放軍関連施設となって、不気味な姿を街角に晒している。
日本軍による2度の市街戦は、欧米が管理する租界地の外で行なわれたため、主に上海の北部、東部が戦場となった。1932年激化する抗日運動の最中、内外綿の工場労働者が殺されたことに対する抗議から始まった暴動は約1ヶ月続き、第一次上海事変へと発展、閘北一体は廃墟と化した。
第二次上海事変(1937年)は、東本願寺の僧侶が托鉢中に殺されたとする、日本軍の謀略で始まった。戦闘は凡そ3ヶ月続き、巻き添えとなった一般市民の死者は1万人を下らない。なおその際上海に上陸した日本兵約10万は、その後引き上げることなく南京へ向かった。その結果起きたのがあの南京事件だった。

白川少将爆殺碑◆ 虹口公園(新公園)
四川北路の北端、現・魯迅公園
1896年、工部局が運動公園を開設。1926年以降中国人にも開放した。日本人は新公園と呼んだ。1932年第一次上海事変の後、ここで日本軍が天長節の祝賀パレードを行なった。その際韓国人・尹奉吉の投げた爆弾により、閲兵台上の白川義則陸軍大将が死亡。重光葵公使は片足を吹き飛ばされた。そのため、日本で終戦の調印式が米国戦艦ミズリー号上で行なわれた際、重光外相は松葉杖で壇上に上った。尹奉吉事件を記録する記念碑は、魯迅公園内に残されていて、今も多くの韓国人が彼らの「愛国者」を偲んでお参りに来る。
なお日本軍は公園内に弾薬庫と射撃場を設けていた。今、市民がダンスやゲームに興じる平和な風景を見ると、過ぎ去った当時の出来事は幻のように思えてくる。いまは平和な時代で、本当によかった。
園内には、魯迅逝去二十周年記念に遺骨を移設して作った魯迅の墓と記念館がある。

溧陽路◆ 溧陽路
四川北路が山陰路前で左に旋回するところを、右折すると溧陽路に入る。そこにはプラタナスの並木道に沿って北側に、2階建てに屋根裏部屋を備えた洋館が並び、屋敷町のような雰囲気を残している。何故か道路脇の壁は、多倫街やこの付近に住んだ「文化名人」の名前、年代、住所が記されている。茅盾、瞿秋白、葉聖陶、馮雪峰、柔石、趙世炎、李白、瀋尹黙、などの名前が見える。終戦後、郭沫若はこの1269号の立派な洋館に住んだ。

◆ 日本留学組による改革派の系譜
1919年~1949年の中国現代文学は、中国人の日本留学生が担っていたと言って過言ではない。1920年代の中国文壇には2つの流れがあり、茅盾、魯迅などが主催した文学研究会と、郭沫若、陶晶孫を中心とした創造社であった。
1927年蒋介石による反共クーデターで国共合作による国民革命が挫折すると、創造社を中心とした郭沫若や成仿吾、太陽社の急進的な文学者は、マルクス主義文芸論に基づく革命文学を提唱して、あくまで文学に重きを置く魯迅、周作人、茅盾などに激しい批判を浴びせた。
しかし彼らは共に、富国強兵と近代科学による中国建設の理想に燃えて日本に留学した経験を持つ。しかし満州事変から日中戦争への進む時代に、救国の思いから日本留学を打ち切り帰国、文学と革命の狭間で揺れながら、祖国の改革と建設に取り組んだのだ。

市川須和田の郭沫若記念館◆ 郭 沫若(かくまつじゃく)
四川省楽山県沙湾の地主に生まれる。1912年故郷で結婚。その後1914年日本留学。旧制一高予科から岡山六高に進む。1918年九州帝大医学部へ進学するが、文学革命の洗礼を受け文学に転向する。1918年恋愛のすえ、東京京橋病院看護婦・佐藤をとみと結婚した。九大医学部の1年後輩には陶晶孫がいる。
1921年上海に帰り、広東大学の文学院長を歴任。北伐が始まると従軍し、南昌蜂起にも参加した。その後国民党に終われ1928年日本へ逃亡。約10年間、佐藤をとみと市川市に住み、その間5人の子供をもうける。
1937年、盧溝橋事件から日中戦争が勃発すると、家族を置いて一人上海に引き上げ、抗日運動に参加、「救亡日報」を創刊する。難民救済活動を通じて知り合った于立群と結婚し、4男2女をもうけた。
戦後は、全人代副委員長、全国政協副主席などを歴任し、日中国交回復、経済交流再会に向けて力を尽くした。市川市須和田に、彼の旧居・記念館が残る。

◆ 茅 盾(ぼじゅん)
浙江省桐郷県烏鎮生まれ。1913年北京大学予科に入学するが、経済的理由で本科進学を断念する。日本留学組ではないが、1928年~30年日本に亡命した。
1916年、上海の商務印書館編訳所に就職、中文の注釈を付けた英語教科書の出版で成功。英語部で西洋近代化思想の多くの翻訳本を出す。多くはトルストイなど多くのヨーロッパ文学の英訳からの重訳で、西洋思想の普及に力を貸した。
1921年上海で共産党が結成されると、茅盾も入党する。
1926年、国民政府の革命幹部要請学校・黄浦軍官学校の武漢分校の教官となる。1946~1947年には、旧魯迅宅の隣の石庫門住宅に住んだ。、その住宅は今も残っており、門前に「茅盾寓居」のプレートが掛けられている。
なお、1897年印刷所として出発した商務印書館は、中国一の出版社に成長し、虹口の西南、西宝興路面して上海最大の印刷所を持っていた。しかし北伐の際の上海蜂起の労働者の拠点となったため、1932年第一次上海事変の際日本軍の攻撃を受けて吹き飛んだ。戦前多くの貴重な書籍を世に送り出し、輝かしい歴史を誇った商務印書館は、いまその痕跡さえ残っていない。

◆ 郁 達夫(いくたっぷ)
1896年浙江省陽県に生まれる。1913年来日、1915年名古屋大学の前身・六校医科に入学するが、翌年文科に転向。1922年東大経済学部を卒業する。
帰国後上海で、魯迅、郭沫若らの文学運動に参加する。1926年広東の中山大学で教鞭をとるが、北伐が始まるとこれに参加。
太平洋戦争が始まると1938年シンガポールへ移住、新聞編集や日本憲兵の通訳などをしていたが、終戦直後日本軍憲兵に殺害された。
今も名古屋大学東山キャンパスに、彼の文学碑が残されている。

◆ 夏 衍(かえん)
1900年、浙江省杭州に生まれる。1920年日本へ公費留学。福岡の明治専門学校電気科(現・九州工業大学)を経て九州大学工学部に入学。
1927年蒋介石の4.12 反共クーデター発生により帰国し、中国共産党に入党。
田漢らと左翼作家同盟を結成、シナリオ作家として芸術劇社で左翼大衆運動に専心する。
戦後は日中友好協会会長、中華日本学界会長、全国文芸協会副主席、中国映画協会主席などを歴任した。

◆ 陳 独秀
彼は虹口地区ではなくフランス租界に住んだが、日本留学組の一人であった。
安徽省懐寧生まれ、1909年に日本留学。正則英語学校から早稲田大学に学ぶ。
帰国して第二辛亥革命に参加した。上海で「新青年」を発刊し、旧来の儒教批判と口語文による文学を提唱した。「新青年」は多くの若者に影響を与え、文学革命の流れを作った。
蔡元培の招きで北京大学教授となったが、1919年、北京大学を辞して上海に戻り、中国共産党の創設者の1人となった。

瞿秋白寓居◆ 瞿 秋白(くしゅうはく)
陳独秀と並ぶ共産党の指導者・瞿秋白は1933年の一時期、魯迅故居と山陰路を挟んで西側の東照里に住んだ。彼は江蘇省常州に生まれたが、母親が赤貧の中で服毒自殺したことで、一家離散状態となった。そこで北京へ上京し、北京大学の聴講生となり、更に学費免除の特典のある俄文専修館に学んだ。ここは元来満州の東清鉄道の敷設権をロシアに与えたことから、そこに従事する人材育成を目的に設立された学校であった。瞿秋白はここでロシア語ご学び、翻訳活動を通じてマルクス・レーニン主義の中国への伝播に大きな役割を果たした。
しかし1935年35歳の若さで福建省で国民党により殺害された。今かれの遺体は北京の革命公墓に移されている。

◆ 田 漢(でんかん)
東京師範大学(旧東京教育大)に学んだ劇作家。帰国後抗日映画「風雲女児―嵐の中の若者たち」の主題歌・義勇軍行進曲の作詞をした。この歌は激烈な抗日運動の歌であるが、聶耳の作曲により今日、中国国歌として歌われている。聶耳は国民党に追われ日本に亡命中、不幸にも誤って藤沢の海岸で溺死した。

今日、多倫街を中心としたかつての日本租界も、よほど注意しない限り、当時の歴史の跡を辿ることは難しくなった。日本人社会は、次第に激化する抗日運動の中で自らを守るために、日本軍の武力を頼りにした。その日本軍は、上海で2度の市街戦を行ない、多くの一般市民を犠牲にした。社会革命を目指す左翼勢力は、日本留学組を中心に国民党の迫害に怯えながら、合法と非合法の狭間でぎりぎりの地下活動を展開した。そうした三者の出来事も、いまや歴史の遠い思い出となった。だからこそ、そうした過去を持つ多倫街を訪れることは、意味のあることだと思うのだ。

資料

丸山昇著、「上海物語」、講談社学術文庫
木之内誠編著、「上海歴史ガイドマップ」、大修館書店

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