上海花園飯店と旧フレンチ・クラブ

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花園飯店全景茂名南路58号に建つ花園飯店は、日本のホテルオークラの経営する高級ホテルとして、特に日本人の間では名声を博している。そこは5つ星ホテルとして近代設備を誇るだけではなく、上海に残る歴史的な建物としても保存の対象となっており、歴史的建造物と現代建築が見事に融和した珍しい例としても有名である。

花園飯店の原型は、1903年に設立されたドイツクラブ(Dautscher Garden Klub)にあった。しかしドイツが第一次世界大戦に負けたことで、同施設はフランスにとられ、以来フランス・クラブ(Cercle Sportif Francais)となったのだ。

花園飯店正面玄関 1926年には、若手フランス人建築家:レオナールとヴェセールにより、新クラブハウスとして現在残る建物(正面ファサードと東側旧エントランス部分、2階グランンド・ボールルーム、その他会議室)が建設された。
ネオ・バロック風の外観と植物などをモチーフとしたアールデコの豪華な内装、さらには2,800平米の前庭を持つ優雅な姿が、今も訪れる者を魅了している。

庭には20面のテニスコート、屋内にはオリンピック競技サイズの室内プール、その脇にカフェバーが作られ、更にビリヤード室、カードゲーム室、喫煙室、床にダンス用のスプリングボードが施されたボールルーム、それに幾つもの素敵なレストランもあった。中でも人気の高かったのは、馬蹄形のバーで、上海中の美女が集まったと言われている。

花園飯店正面玄関 外灘には、フレンチ・クラブより格調高く、厳格な会員制を敷く上海倶楽部があった。しかしここはタイパンによるタイパンだけのクラブで、一般人を締め出していた。特に婦人は会員になれなかった。しかしフレンチ・クラブは、そこはフランス人の性格から、婦人会員も容認したのだ。しかし一時に40名のみと限定したため、常に会員待ちの長いリストが出来ていた。後年フレンチ・クラブは、中国人会員を認める最初のクラブとなった。

花園飯店2階への階段 日曜の午後に開かれる”Tea Dance”は、冬の社交の人気行事であった。夏には、各種のグループがテニスの試合に興じた。シーズンの終わりには夜会を設け、ビュッフェ・デイナーと共に表彰式が行なわれた。テニスコートは、キャンバス布で覆われ、色とりどりの電灯が燈され、人々はカジュアルなダンスを楽しんだのだ。

新中国成立後は、中国の高級幹部用の社交場:錦江クラブとなったことから、毛沢東主席や江青女史なども度々訪れ、現在の大宴会場(百花庁)でダンスを楽しんだと言われている。その為庭園内には、8室からなる避難用の防空壕(核シェルター)や、茂名路を跨いで錦江飯店に通ずる地下通路も設けられた。

新たらしいフランス・クラブの建物が完成すると、3年後には道路を挟んで錦江飯店(Cathtay Mansion)が、更に四つ角に蘭心大戯院(Lyceum Theater)や国泰大戯院(国泰電影院―Cathay Theater)が設けられ、この地域は上海でも最も地価の高い高級娯楽エリアとなった。

花園飯店ステンドグラス 1990年、日本の野村證券がこの施設を購入し、クラブハウスに接続して後方に新しい33階建てのホテルが建設されることになった。一階奥にあった室内プールやビリヤード場を取り払い、建物の後ろ半分に近代的タワーを建設したのだ。ホテルオークラから派遣された初代総支配人・綾部氏によると、当時の中国の状況から、家具・調度品の全ては輸入せざるを得なかった。唯一の例外は浴室の純白の山東省産天然大理石で、綾部総支配人自らプレートを一つづつ吟味して選んだとお聞きしました。当初2階のフォイヤーの欄間には、ベニヤ板が不恰好に打ち付けられていた。それを取り除くと、現在みる優美なギリシャ彫刻の女神が現れた。文革当時、もしこのベニヤ板がなかったら、裸体の女性像はすべて破壊されていたであろう。宴会場の天井には、タバコの脂で真っ黒に煤けたステンドグラスらしいものが見えた。高い費用を掛け洗浄してみると、現在見上げる素晴らしいオーバル(玉子型)のステンドグラスが現れ、一同びっくりしたと伝えられている。

1階右手奥のカフェテリア・ローズは、元来ボーリング場であった。そのため改装前は現在より更に長細く、日本では全く知られていなかったボーリングを、当時のクラブ・メンバーは楽しんでいたのだ。2人の少年が、懸命に走り回って、6レーンのピンを手で並べ直していた。室内の水道水が飲めるのも、現在でもここだけであろう。

初代フレンチ・クラブ

ところで、花園飯店の旧ドイツ・クラブがフレンチ・クラブになる前に、初代のフレンチ・クラブが別にあったのだ。それは今も復興公園(旧フランス公園)の北の南昌路47号に現存している。即ち、フレンチ・クラブは復興公園の北の初代の建物から、花園飯店へと移転したのだ。

科学会堂 初代フレンチ・クラブは、フランス租界の産業省が1914年に建てたものであった。
赤い屋根瓦にクリーム色の壁を持つ2階建ての庭付きの建物で、現在は科学会堂として中国人科学者の社交場となっている。近くに新しい科学会堂のビルが建ったことで、残念ながら、この古い歴史的な建物を知る人は極めて稀になり、南昌路の風景の中に忘れ去られたように、埋もれている。

南昌路からフレンチ・ルネッサンス様式の外見はみえないが、中庭から見ると、左右に広がる建物の中央テラスの上部に時計台があり、フランスの鉄道駅のようにも見える。

科学会堂庭園側正面入口 それは何十もの部屋を持つ壮大な建物で、南側に6千平米の広い庭園を伴っている。そこに樹木と芝生を適切な割合で配置したことで、この建物の大きさは和らげられ、こじんまりとした居心地のよい大きさに見える。しかし実際は極めて大きく、目指す部屋を探すのが難しいほどである。建物の装飾は飾り気が無く、実に品がいい。まるで古い大学の校舎のように、どっしりとして威厳があり、ぎしぎしと軋む木製の廊下を歩むと、1910年代の昔にタイムスリップをしたようだ。

この歴史的な建物は、今も会議場として極めて廉価で借りることができる。広い建物のあちこちでは、いまも時折、科学研究会や講演会が行われている。

科学会堂ステンドグラス 会堂の壁にはどこも良質のチーク材がふんだんに使われている。栗色の木製の広い階段を2階へ上がって行くと、途中、窓辺に広がる1918年と記された豪華なステンドグラスに目を奪われる。そこには一本の木が、満開に咲く真っ赤な花を着けて色鮮やかに、生き生きと描かれている。それは、1918年に設立された徐家匯の土山湾孤児院(Orphelerat de T’ou-Se-Ve)の子供達の手になるものであろう。上りきった2階の左右の壁には、アールヌヴォの見事な幾何学模様の壁画が描かれている。

アールヌボーの壁画 当時ここでは、多くの社会的な公式行事や舞踏会、カクテルパーテイや展示会、またビリヤードやテニスなどのスポーツが行われていた。1926年にフレンチ・クラブが花園飯店に移転して後は、この建物はフランス人学生の公立学校(Ecole Municipale Francaise)となった。租界の住人の子弟で、フランス式の教育を望む者は、誰でも入学できた。フランス人の他に、白系ロシア人、少数だが中国人の子弟もいた。学期の終わりには、学業成績とスポーツの表彰式が行なわれ、フランス領事、警察庁長官、租界の歩兵将校が制服姿で参列した。

ここは、建物の規模と役割からして、隣接する旧フランス公園と共に、旧フランス租界の最も重要な公共の建物であったであろう。南昌路に面して、昔レストラン・鮮窗房のあった場所には、クラブ所属の4レーンのボーリング場があった。また現在、上海青少年体育訓練場の体育館となっている所は、大きなダンスホールであった。

いま華麗に生まれ変わったオオクラ・ホテルと違って、初代のフレンチ・クラブを思い出す人は、ほとんどいないであろう。かつてフランス人が集まって芝生の上で球技を楽しみ、元気な子供達の声が教室中に響いていたあの日々は、もう帰ってこない。今はただ、古色蒼然とした建物が残り、昔の物語を語りかけているだけだ。いま科学会堂といえば、人びとは南昌路と思南路の角にある新しいビルを思い出すであろう。しかし復興公園のすぐ北、静かな佇まいを残す南昌路を散策する際には、是非、初代のフレンチ・クラブを探してみて下さい。中に入るのは難しいが、催しものの参加者に紛れてこっそり入ると、いまも壮麗な建物、目を奪うステンドグラスの窓、印象的な天井、木製の曲線階段が、訪れる者に過っての威光を垣間見せてくれる。

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