
新楽路と裛陽路の交差点、大小5つのオニオンドームを持つ東正教会(聖母大堂)の前(徐匯区新楽路82号)に、2008年にオープンした小型のブテイック・ホテルがある。教会堂のエキゾチックな建物に隠れて、付近の大型住宅とさして変わらない建物は、むしろ人目を忍んでいるかのように見える。これはフランス人
Lafayette の設計になる1932年竣工の4階建て洋館で、現在は屋上にレストラン・バーを併設したことで、5階建てとなっている。1934年に建てられた近くにある杜月笙別邸(現・東湖賓館1号館―新楽路167号)もよく似た外装である。
実はこれこそ、上海暗黒街の最大組織・青帮の首領三人(黄金栄、杜月笙、金廷蓀)が設立した三鑫公司の総本部・会館であった。三鑫公司は、1918年末または1919年初頭に設立され、年間収入5,600万元、諸経費を引いた純利益1,000~2,000万元という巨大企業であった。当時の金で日本円1.5億~3億円と言えば、如何に巨額な利益を得ていたか判るであろう。
その主な収入源は、阿片売買、芸妓(売春宿)、賭博場、各種名目の保護費やショバ代などであった。最盛期の四馬路(福州路)には100軒の妓院があった。青帮の経営する五大賭博場はどこも大繁盛で、袁世凱の次男・袁克文は彼らに踊らされ半月も経たないうちに数万銀元を失い、すってんてんで北京へ逃げ帰ったと言われている。
特に1932年フランス租界で麻薬取引が禁止されたことから、青帮は国民党への工作を強め、軍事費用の不足に悩む蒋介石から阿片売買の専売権を得たことで、莫大な利益を手にした。その阿片売買の中枢が、この首席公館酒店の場所であったのだ。
青帮はまた、吸い上げた豊富な資金を使い経営の現代化を図った。黄金栄を引き継いで青帮最大のボスにのし上がった杜月笙は、自らが部長を勤めるフランス租界警察のマレー警察署の隣に、1929年自分自身の銀行・中匯銀行を設立した。フランス領事や国民党高官など上海の名士がこぞって出資し預金したのだ。銀行ビルとなった11階建ての中匯大厦は、156万銀元で建設された。(河南南路16号)
更に青帮は国民政府の社団登記法に従い会社組織「恒社」に改変され、紡績、漁業、製粉、金融、船舶運輸など実業界の各方面に勢力を拡大した。その隠然たる影響力は、誰も無視できなかった。実際、杜月笙は100社を超える企業の董事長を兼務していた。
三鑫公司の建物は、合法、非合法を問わず様々な企業活動に関与し、夜ごと上海中の名士を集めて贅沢なパーティが開かれた。必ずや大規模な賭博も行われたことであろう。
華典酒店国際投資集団総裁・殷鼎氏が経営する現代の首席公館酒店は、上海が最も輝いていた当時の時代を彷彿させる。32の凝った作りの客室、エルメス製の化粧品を置いた大理石の浴室、ジャクジーや高水圧のシャワー、高級なAV機器、租界時代の様々な遺品が飾られた贅沢なロビー・ラウンジ、広東料理の翰林軒、董事会もできる会議室、7つの会議・宴会用個室、ルーフトップの西洋料理、屋外バーなど、個人のお客様をとことん満足させる魅惑的な施設が揃っている。
ホテル内のあちこちには往時の上海の写真と共に、耳の大きな杜月笙の写真をいくつも見ることができる。
暗黒街・青幇のボス、杜月笙は、上海の God father であった。
彼は1888年浦東高橋の貧しい農家の家庭に生まれたが、両親が若い時に亡くなったため貧困のうちに幼年時代を送った。16歳で上海南市の小東門近く、黄江の荷揚げ場・十六舗の果物屋で働き始める。やがて青帮のボス・黄金栄の女房に気に入られたことから、次第にギャング仲間の間でのし上る。仏租界のトラムウエイの労働闘争に介入し、長期ストライキを治めたことで仏租界政府の信任を得た。それを契機に、実業家や資本家の後援を受けるようになり、次第に表の社会でも活躍するようになる。
彼は社会的に賞賛されると同時に、恐れられた。彼はフランス租界の阿片売買など不正な闇取引をするためには、フランス人にとってどうしても必要な人材であった。麻薬取引にからんで杜月笙が仏租界の関係者に払う賄賂は、年間1,000万元にも上ったと言われる。
彼は黒世界を支配することで、巨額の金を蓄えた。一方国民党にとっても、特に日中戦争勃発の時代には、上海を治めるのに彼の助けが必要であった。
彼は直接的にも間接的にも、クーリーと沖中氏、運送業の全てを牛耳っていて、実質上上海市の全中国人従業員を支配していたとさえ言える。水洗トイレの無かった当時の上海では、糞尿は毎日杜月笙の女房の経営する糞尿回収会社が回収に来ていた。彼の一言で、町の全活動が停止する事態もありえたのだ。彼は乞食の世界さえ支配していた。乞食は“営業地域”を割り当てられ、所場代を払った。一日の終わりには、杜月笙の子分がやって来て、上がりの殆どを巻き上げた。
青帮の大ボス・黄金栄は、浙江省督軍の総督・慮永祥の息子を殴ったことで彼の軍隊に監禁された。その際杜月笙は阿片売買の利益の一部を賄賂として差し出すことで、彼を救い出した。これ以後杜月笙は黄金栄の地位を引き継ぎ、青帮の大親分としての地位を確立する。
青帮の大ボスとして麻薬や売春、賭博にからむ彼の黒社会の顔と裏腹に、表の顔は次のような華々しいタイトルが並んでいた:国民党政府海陸空総司令部顧問、上海市抗日救国会常務委員、上海地方協会会長、中国通商銀行董事長、中華実業信託公司董事長、全国船聯会理事長、中匯銀行董事長、上海法租界公董局華董、国民党政府行政院参事。
日中戦争終了後は、国民党上海市参議会第一任議長、第一届国民大会代表、復興航業股份有限公司董事長、恒社句結軍統。
1949年香港へ逃亡後も、新界青山酒店董事、中国航聯保険公司香港分公司董事長などを歴任する。いやはや何とも華々しい、押しも押されもせぬ社会の一大名士ではないか。
ではここで、杜月笙に関する主要な出来事をみてみよう。
| 1925年 | ボスの黄金栄から張嘯林と共に寧海路の土地提供を受け、青帮のボス三名が連続した石庫門住宅を建て、そこに住む。(現在は区画整理で全て撤去された。) |
| 1927年 | ボスの黄金栄、張嘯林と共に中華共進会を組織。杜月笙は蒋介石の命を受けて、同年4月12日革命運動の鎮圧に乗り出す。80万の工員を抱えた上海総工界の指導者・汪寿華は青帮の一員でもあったが、杜月笙は彼を殺害し、共産系の活動家数千人を殺傷した。“4・12反革命”として知られる。それ以後杜月笙と蒋介石は互いに相手を必要とする、裏で繋がった存在となった。 |
| 1929年 | 中匯銀行を設立。金融界に乗り出す。(中匯大厦―解放後は旧上海博物館となる) |
| 1932年 |
仏租界の公董局は本国から黒社会との癒着を指摘され、やむなく杜月笙に租界警察部長の職を辞するよう勧告する。怒った杜月笙は、麻薬取引に絡む弁護士・マルスリ伯(太原別荘所有者)、フランス領事・コークリン、ルーセル少佐、シトロエンの天才ドライバー・ジョルジュ=マリー・アールトなどを殺害したと噂されている。 |
| 1934年 | 弟分の金廷蓀が航空奨券(航空事業拡大のための資金集めの富くじ)を横流した不正が発覚。事件もみ消しのお礼として、金廷蓀は東湖賓館1号館(杜公館―米ドル30万を要した3階建て洋館)を杜月笙に贈った。当然横領金額は洋館建設費を遥かに上回ったものと推測される。 |
| 1937年 | 7月に発生した盧溝橋事件は上海に飛び火し、第二次上海事件(中国では八・一三事変と言う)に発展する。杜月笙は各界と協力し抗日運動に従事。責任者として救援物資の支給、通信機材の供給、八路軍への防毒面用具の支給などに活躍した。上海市抗日救国会常務委員、中国赤十字副会長に就任する。 |
| 1940年 | 国民党の支持の下に中国各地の帮を統合し実質上中国帮会の総督となる。 青帮の三大ボスの一人・張嘯林は日本軍に協力し、新亜和平促進会を組織して、王精衛の南京政府の浙江省長に任命されることとなった。蒋介石側につく杜月笙は張の部下・林懐部を買収し、かつての同僚・張嘯林を殺害した。 |
| 1941年 | 太平洋戦争勃発と共に、国民党の重慶に移住。 |
| 1945年 | 日本敗戦と共に上海に戻る。以後企業活動に従事。工商、金融、交通、文化、教育、新聞など幅広い活動をし、6,70箇所の董事長を兼ねる。 |
| 1949年 | 共産中国の成立と共に香港に逃亡。 |
| 1951年 |
香港で病死。 |
首都公館酒店は、2008年10月から日経新聞朝刊で連載が始まった高橋のぶ子の小説「甘苦上海」に度々登場するので、少しは人々の関心を呼ぶとことろとなった。そこで供される中華料理は鮑にふかひれスープが付いた豪華のもので、一人前900元もする。しかしギャングの親玉・杜月笙とその時代にタイムスリップして味わう夕食会は、上海でしか考えられない話題の一つに違いない。
散歩がてらに、1ブロック離れた所にある東湖賓館(杜月笙の妾の住宅)と併せて立ち寄ってみる。戦前の華やかな租界生活の影に隠れて、杜月笙を生んだどす黒い裏社会があったとは考えられないほど、街はいま落ち着いた静かな広がりを見せている。あれは一体、夢かまぼろしだったのだろうか。